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[[1115年]]に[[科挙]]に合格、順調に出世を重ねる。[[1127年]]に金が[[北宋]]を滅ぼし、華北統治のために[[張邦昌]]を首領に据え[[傀儡政権|傀儡国家]]の楚を創ろうとした際、秦檜は反対したとして、同じく反対した他の朝臣と共に[[粘没喝]]の軍に北へ連れ去られた。その後、他の宋旧臣は各地へ連行されたが、秦檜のみは厚遇を受けている。
 
[[1130年]]、秦檜は金から解放されると、南の[[高宗 (宋)|高宗]]の元へ辿り着いた。高宗は帰還した秦檜に向けて喜びを表し、即日[[礼部]][[尚書]]とした翌年には宰相となった。その後、一時期宰相を罷免されるが、すぐに復帰して金との交渉を担った。
 
当時は岳飛を初めとする、対金戦で軍功を挙げた武官が台頭しており、主戦派の政治家と共に講和派の秦檜を批判した。これに対して、金の圧力を背景に高宗の支持を得た秦檜は、禁軍将帥や張邦昌などの軍閥間の不仲から起きた対立と均衡の上に政権を掌握した。
 
[[1141年]]、講和に反対する多数の将軍や政治家の官職を剥奪して身分を落とし、救国の英雄と言われた[[岳飛]]に至っては「{{仮リンク|莫須有|zh|莫須有}}(あったかもしれない)」として反逆罪で謀殺した。主戦派を抑圧して権力を握った秦檜は翌年、金が占領している国土を割譲し、宋が金に毎年銀25万両と絹25万疋を金に貢るという、屈辱的な内容の和議を結んだ([[紹興の和議]])。
 
その後も秦檜に対する非難は止まなかったが、反対派や義軍に対しては徹底的な弾圧を行い、講和に批判的な民衆に対しても[[文字の獄]]を起して弾圧するなど、19年の長きにわたって専権を極め続けた。
 
[[1155年]]、宰相の地位に居座ること20年、66歳で死んだ。岳飛の孫である[[岳珂]]が著した『程史』によれば、危篤であった秦檜はなおも政敵であった[[張浚]]を追い落とそうとしていた。病床の秦檜は、役人が持参した張浚に対する判決を記した奏牘(上奏文)に署名をしようとしたところ、手が震えて書くことが出来なかった。さすがの妻の王氏も屏風の後から手を振って「太師(秦檜)を疲れさせないように」と述べて役人を引上げさせようとした。秦檜はなおも署名しようとしたが、ついに机に倒れ込み、そのまま死亡したという<ref>『程史』巻12。類似の話は[[朱熹]]の「少師保信軍節度使魏国公致仕贈太保張公行状」にも記されている(平田茂樹『宋代政治構造研究』汲古書院、2012年、P140-141)。</ref>。
 
高宗は金を後ろ楯とする秦檜に対して隠忍自重を重ね、秦檜の生前には「私は彼を得たことが嬉しくて夜も眠れないほどだ」と語っていたが、秦檜が死ぬと楊存中に対して、それは本意ではなく「私は今日からは靴の中に[[匕首]]を隠さずに済む」と語り、秦檜派の朝臣100人以上を弾劾の上で罷免している。
 
== 評価 ==
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また、浙東堤挙常平茶塩公事として温州の州治・永嘉県を視察した朱熹は、温州ではかつて知事を務めた秦檜が崇敬されて県学に祠が作られていると知るや、取り壊しを命じている(『晦庵先生朱文公文集』巻99「除秦檜祠移文」)<ref>温州は秦檜が趙鼎政権下で左遷された1136年から1138年にかけて知事を務めており、その際に秦檜は温州の士大夫と関係を結び、政権復帰後には温州出身者を政権に登用し、岳飛の幕僚の一人であった温州出身の薛弼に対しても秦檜自らが擁護して罪を免れるなど、温州赴任時の恩義に報いたため、温州は秦檜に対して好意的な地域であった(岡元司『宋代沿海地域社会史研究』(汲古書院、2012年)P110-115・146)。</ref>。
 
=== 宋史での評価(元(モンゴル帝国)代の評価)===
[[元 (王朝)|元]]代に編纂された『[[宋史]]』では、秦檜は「姦臣伝」に入れられ、次のように酷評されている<ref>『宋史』「秦檜伝」。日本語訳は衣川1973より。</ref>。
* 2度、あわせて19年間も宰相の位にありながら、天子を脅し悪心を抱き、講和を唱えて国家を誤まり、仇を忘れて人の行うべき道を壊した。時の忠臣や良将の、ほとんど全てが根絶やしにされ、頑迷固随にして愚か、しかも破廉恥な輩が、秦槍の手先になった。
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== 関連項目 ==
*[[油条]]
 
{{DEFAULTSORT:しん かい}}
[[Category:宋代の進士]]
[[Category:靖康の変の抑留者]]
[[Category:南宋の人物]]
[[Category:岳飛]]
[[Category:南京出身の人物]]
[[Category:1091年生]]