「クリスティアン・ツィマーマン」の版間の差分

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[[1956年]]12月5日、ポーランド南部の[[ザブジェ]]に生まれる。父親は[[ドイツ人|ドイツ系]]のピアニストで、工場の設計部門に勤める傍らバーで[[ピアノ]]を弾くという生活をしていた。ツィマーマンは幼少期、家に置かれていた[[グランドピアノ]]の蓋を開けて毛布をかぶせ、[[インディアン]]のテント遊びをしていたと語っている。
 
5歳の頃父からピアノを学び、7歳から[[アンジェイ・ヤシンスキ]](Andrzej Jasinki)に師事した。[[1973年]]の[[ベートーヴェン国際音楽コンクール]]で優勝後、1975年の第9回[[ショパン国際ピアノコンクール]]に史上最年少(18歳)で優勝、その後も着実にキャリアを重ね、現在に至っている。
 
学生当時はポーランドでの物資調達が困難で、ピアノ部品の製作・修理を自分で一から手作業で行わなければならなかった。これにより、ツィマーマンのピアノの構造、素材に対する知識が培われた。[[スイス]]の[[バーゼル]]にある自宅には、自身が製作したピアノやその鍵盤アクションが何台も置かれているという。
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[[1999年]]、ショパン没後150年を記念して、ポーランド人の若手音楽家をオーディションで集め、[[ポーランド祝祭管弦楽団]]を設立し、ショパンのピアノ協奏曲公演をポーランドや[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などで行った。また、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]、[[レナード・バーンスタイン]]、[[カルロ・マリア・ジュリーニ]]、[[小沢征爾]]、[[ピエール・ブーレーズ]]、[[サイモン・ラトル]]等、世界の名指揮者と共演を重ねている。
 
ツィマーマンは楽器を自分のコントロール下におくことを徹底しており、公演ではプログラムで演奏する具体的なレパートリーに合わせて自己の所有するピアノを入念に調整し、それを世界中のホールに運搬し持ち込んで演奏することで知られている。更に、公演には同行した[[ピアノ調律師]]と同行し、共同でピアノを各会場のホールの特性に合わせて調律するなど、音の響きのコントロールに対比類のない情熱を傾けた上で演奏している。[[レコーディング・エンジニア|レコーディング技術]]や[[音響学]]に対する造詣も深く、自身でスタジオを建設したこともある。また演奏に対する完璧な姿勢から、リサイタルで弾くまでには10年もの年月をかけて曲を準備するという
 
初来日は1978年で、それから1982年、1985年、1987年、1991年、1993年、1997年、2003年と来日し、2006年以降はほぼ毎年来日して合計100回を越えるリサイタルを重ね、日本の聴衆を魅了し続けている。ツィマーマン自身も親日感情を表明しており、東京に自宅も所有している。日本での人気は年々高まっており、例えば2003年来日時の[[サントリーホール]]でのチケットは即日完売であったとされる。