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'''ゲンリヒ・グスタヴォヴィチ・ネイガウス'''<ref>[[ドイツ語]]風の氏名ハインリヒ・ノイハウス(Heinrich Neuhaus)を[[ウクライナ語]]の[[キリル文字]]に綴り換えて文字通りに読むと、ヘンリフ・ネイハウスとなり、これを[[ロシア語]]読みするとゲンリフ・ネイガウスとなる。英語圏ではHenry Neighausと表記される場合もある。</ref>(Heinrich Gustavovich Neuhaus(z), {{lang-uk|Генрих Густавович Нейгауз}}, [[1888年]][[4月12日]] - [[1964年]][[10月10日]])は[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ピアニスト]]・音楽教師。
 
[[ウクライナ]]の[[ドイツ]]系(または[[スウェーデン]]系)の家庭に生まれる。[[ドイツ語]]風の氏名ハインリヒ・ノイハウス(Heinrich Neuhaus)を[[ウクライナ語]]の[[キリル文字]]に綴り換えて文字通りに読むと、ヘンリフ・ネイハウスとなり、これを[[ロシア語]]読みするとゲンリフ・ネイガウスとなる。英語圏ではHenry Neighausと表記される場合もある。
 
== 経歴 ==
[[ウクライナ]]のエリザヴェトグラード(現[[キロヴォフラード]])出身。[[ウクライナ]]の[[ドイツ]]系(または[[スウェーデン]]系)の家庭に生まれる。両親ともに[[ピアノ]]教師であったが、ほとんど独学であった。早期の芸術的な発展において、又従兄[[カロル・シマノフスキ]]や、叔父の[[フェリックス・ブルーメンフェルト]]から最も影響を受けた。[[1902年]]にエリザヴェトグラードにおいて、11歳の[[ミッシャ・エルマン]]と共演してリサイタルを行い、[[1904年]]に[[ドイツ]]に行き、[[ドルトムント]]や[[ボン]]、[[ケルン]]、[[ベルリン]]などで演奏旅行を行なった。その後ベルリンで[[レオポルト・ゴドフスキー]]に入門し、[[1909年]]から[[第一次世界大戦]]の勃発まで、[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]のマスタークラスに参加した。
 
[[1914年]]に[[エリザヴェトグラード]]で指導を開始し、後に[[トビリシ|ティフリス]]や[[キエフ]]でも教鞭を執った。この頃に、教育活動への興味から演奏活動を止める。1922年に[[モスクワ音楽院]]教授となり[[1935年]]から[[1937年]]まで院長も務めた。[[1956年]]に[[ロシア人民芸術家]]に選ばれた。門人に[[ヤコフ・ザーク]]、[[エミール・ギレリス]]、[[アナトリー・ヴェデルニコフ]]、[[スヴャトスラフ・リヒテル]]、[[スタニスラフ・ネイガウス]]、[[ラドゥ・ルプー]]、[[アントン・ギンスブルク]]、[[アレクセイ・ナセトキン]]がいる。
 
ネイガウスは、詩的な魅力を湛えた演奏や、芸術的な洗練、該博な教養ゆえに幅広く称賛されてきた。著書『ピアノ奏法論』([[1958年]])は、この問題を扱った本の中で最もよく読まれ、かつ重用されている。
 
== 関連項目家族・親族 ==
* [[グスタフ・ネイガウス]] - 父。[[カロル・シマノフスキ]]の恩師。
* [[マリア・ネイガウス]] - 母。[[カロル・シマノフスキ]]の父[[スタニスワフ・シマノフスキ]]の従姉妹。