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その後、社会人・[[日本通運硬式野球部|日通浦和]]を経て、[[1969年]]にドラフト4位で[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]に入団し、兄・正一と同じ背番号34を着けた。入団1年目から[[速球|直球]]と[[カーブ (球種)|カーブ]]を武器に18勝を挙げ、同年[[東京スタジアム (野球場)|東京球場]]で開催された[[1969年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]では[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の投手としてマウンドに上った留広が[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]のメンバーとして打席に立った兄・正一と対戦するというオールスターならではの夢の対決が実現し、この勝負の結果は正一を[[二塁手|セカンド]][[飛球|フライ]]に打ち取っている。
 
翌[[1970年]]には1勝差で最多勝を逃したものの24勝をマーク。{{by|1971年}}はシーズン被本塁打42本の記録を作った。これは{{by|2019年}}現在も第2位の記録である<ref>[http://npb.jp/bis/history/ssp_hr.html]</ref>。[[1972年]]9月22日南海戦で満塁本塁打を放つ。2011年現在パリーグ投手の満塁本塁打はこれ以降出ていない。同年20勝をマークし[[最多勝利|最多勝]]のタイトルを獲得した。
 
[[1974年]]、[[野村収]]との交換[[トレード]]で、兄・正一が監督を務めていた[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]に移籍。16勝を挙げ2度目の最多勝とパ・リーグ[[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]を獲得しチームの4年ぶりのリーグ優勝、24年ぶりの日本一に大きく貢献した。[[中日ドラゴンズ]]との[[1974年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では2試合に先発、第4戦では6回を3失点に抑えシリーズ初勝利を記録した。