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名称 = 法界寺|
画像 = [[File:Hokaiji05s1920.jpg|260px]]<br />阿弥陀堂(左手前、国宝)と薬師堂(右手奥)|
所在地 = [[京都府]][[京都市]][[伏見区]][[日野 (京都市)|日野]][[西大道町]]19|
位置 = {{coord|34|56|2.96|N|135|48|53.7|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title}}|
山号 = [[東光山]]|
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宗派 = [[真言宗醍醐派|醍醐派]]|
寺格 = [[別格本山]]|
本尊 = [[薬師如来]]([[重要文化財]])|
創建年 = [[永承]]6年([[1051年]])|
開基 = [[日野資業]]、[[最澄]]|
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別称 = '''日野薬師'''<br />'''[[乳薬師]]'''|
札所等 = [[西国薬師四十九霊場]]38番<br />[[通称寺の会]]|
文化財 = [[阿弥陀堂]]<br />[[阿弥陀如来]]坐像([[国宝]])<br /><br />本堂<br />木造薬師如来立像<br />木造[[十二神将]]立像<br />阿弥陀堂内装飾画(重要文化財)|
}}
{{右|
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[[File:Amida Hokaiji.jpg|thumb|none|200px|阿弥陀如来坐像]]
}}
'''法界寺'''(ほうかいじ)は、[[京都市]][[伏見区]][[日野 (京都市)|日野]]にある[[真言宗醍醐派]][[別格本山]]の[[寺院]]。[[山号]]を'''東光山'''と称する。[[本尊]]は[[薬師如来]]([[秘仏]])、開基は伝教大師[[最澄]]とされている。[[藤原氏]]の一族である[[日野家]]の[[氏寺]]で、「'''日野薬師'''」あるいは「'''乳薬師'''」の別名で知られる薬師信仰の寺であるとともに、[[国宝]]の阿弥陀堂と[[阿弥陀如来]]像を有することでも知られる。
 
== 歴史 ==
法界寺は[[醍醐寺]]の南方、[[宇治市]]との境界に近い、京都市伏見区日野に所在する。日野は『[[方丈記]]』の著者である[[鴨長明]]の住んだ地であり、[[親鸞]]の生誕地としても知られる。かつて[[山城国]][[宇治郡]]日野([[日野村 (京都府宇治郡)|日野村]]、[[醍醐村 (京都府)|醍醐村]]日野)と呼ばれたこの地は、[[日野家]]の領地であった。日野家は[[藤原北家]]の一族で、[[儒学]]や[[歌道]]をよくした家柄である。
 
[[平安時代]]後期の[[永承]]6年([[1051年]])、もと[[文章博士]]で後に出家した[[藤原資業|日野資業]]が、[[薬師如来]]を安置する堂を建てたのが法界寺の始まりとされている。薬師如来像の胎内には、資業から4代前の家祖・[[藤原家宗]]から代々伝わる、伝教大師[[最澄]]自作の三寸の薬師像を納入したという。
 
寺の草創時期については別の伝えもある。すなわち家宗が[[弘仁]]13年([[822年]])、最澄自作の薬師像を本尊とし、最澄を開基として一族の[[氏寺]]を建てたとするものである。
 
その後、平安後期の[[阿弥陀信仰]]の高まりや[[末法思想]]の普及にともない、法界寺にも阿弥陀堂が建てられた。当時は幾つかお堂があったが、現存するのは阿弥陀堂のみである。平安時代後期の法界寺には、当時の日記等の記録で判明するだけで少なくとも5体の丈六の[[阿弥陀如来]]像が存在したことがわかっている。現在、阿弥陀堂に安置される像がそのうちのどれに当たるかは判明していない。
 
なお、[[浄土真宗]]の開祖である[[親鸞]]は、[[承安 (日本)|承安]]3年([[1173年]])に[[日野有範]]の子として、法界寺にて生まれたとされている(法界寺の近くには親鸞の生誕地にちなんで[[江戸時代]]に創建された[[日野誕生院]]がある)。
 
== 伽藍 ==
薬師堂(本堂、重文)-1904)-[[1904]][[明治]]37年)、[[奈良県]][[斑鳩町]][[竜田 (斑鳩町)|竜田]]にあった[[伝燈寺 (奈良県斑鳩町)|伝燈寺]]([[傳燈寺]])の本堂を移築したもの。棟札から[[室町時代]]、[[康正]]2年([[1456年]])の建築だと分かる。上述の伝燈寺は[[龍田神社]]の[[神宮寺]]であったが現在は廃絶している。本瓦葺寄棟造、内部は内陣が格天井、内陣が折上格天井である。本尊の秘仏・薬師如来立像(重文)は平安時代後期の作。高さ88cm、桜材の寄木造。桜材を用いるのはこの時代では珍しい。右手を施無畏印、左手を右手の高さ近くまで持ち上げて薬壺を持つ。秘仏だったため、着衣の切金模様がよく残っている。胎内に小像を納めていることから、胎児を宿す婦人の姿あるとして妊産婦からの信仰を集め、安産や授乳のご利益をもつ「乳薬師」として古くから信仰を集めている。現在も、薬師堂の格子戸には全国各地の母親から願い事が書かれたよだれ掛けが奉納され、堂の内側が見えないほどである。脇侍として[[日光菩薩|日光]]・[[月光菩薩]]([[鎌倉時代]]の作)が同じ厨子に安置されている。厨子の正面には鏡が貼り付けられているため開かず、拝観は横からのみである。本尊を安置する厨子の左右にはさらに2つの厨子があり、鎌倉時代の[[十二神将]]像(重文)が6体ずつ安置されている。像高60cm余りの像であるが躍動感に富み、頭にはそれぞれ十二支のを象った彫り物が付いている(本尊、十二神将ともに非公開)。薬師如来立像は秘仏であるが、[[2016年]]4月29日 - 同年5月8日まで、「京都非公開文化財特別公開」の一環として開扉された。新聞報道等によれば、51年ぶりの公開である<ref>[http://www.kobunka.com/topics/pdf/hikoukai2016haru.pdf 公益財団法人 京都古文化保存協会 平成28年度 春期京都非公開文化財特別公開開催のお知らせ]([[PDF]])</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ4G5648J4GPLZB00S.html 「京都・法界寺、半世紀ぶりの秘仏 文化財特別公開」](朝日新聞、2016年4月26日)</ref>。
 
阿弥陀堂(国宝)- [[鎌倉時代]]初期の建築。[[承久]]3年([[1221年]])の兵火で焼失後、まもない頃の建立と推定される。方五間(間口、奥行ともに柱間の数が5間)の身舎(もや)の周囲に1間の裳階(もこし)をめぐらした形で、屋根は宝形造([[ピラミッド]]形)で檜皮葺きである。裳階の屋根は正面側の中央三間分を一段高く切り上げる。裳階部分は壁や建具を入れず吹き放ちとする。身舎の正面は五間とも蔀戸(しとみど)である。身舎内部には本尊阿弥陀如来坐像を安置し、本尊を囲むように四天柱(方形をなすように配置された4本の柱)が立つのみで間仕切りはない。平面構成は阿弥陀如来の周囲を人々が歩いてめぐりながら[[念仏]]を唱える常行三昧堂の形式を伝える。身舎柱と四天柱の柱筋が一致せず、四天柱の外側の空間を広くとる点にこの堂の特色がある。四天柱の表面や、柱上の小壁には創建当時の絵画が残る<ref>『週刊朝日百科 日本の国宝』73号、pp.85 - 86(解説執筆は平井俊行)</ref>
 
== 文化財 ==
=== 国宝 ===
* 阿弥陀堂-既述
* 木造阿弥陀如来坐像-11世紀末頃の作。阿弥陀堂の本尊。像高2.8メートル。[[仏師]][[定朝]]の様式を受けた定朝様(よう)の阿弥陀像の典型的な作品。
 
=== 重要文化財 ===
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* 木造薬師如来立像
* 木造十二神将立像
* 阿弥陀堂内装飾画<ref>文化庁公式サイトの「国指定文化財等データベース」では本件の名称が「弥陀堂内装飾画(板絵著色)」となっているが、「弥陀堂」は「阿弥陀堂」の誤り。また、「板絵著色」のみでなく「土壁著色」の部分もある</ref>
** 阿弥陀如来並坐像 8面
** 飛天図 10面