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[[1959年]](昭和34年)2月1日投票の愛知県知事選挙に[[日本社会党]]は元秋田県知事の[[磯部巌]]を擁立。竹内派も太田派も矛を収め、ともに現職の[[桑原幹根]]の応援に入った。一時的に呉越同舟となった同年1月のある夜、[[岡崎商工会議所]]会頭の田口宗平、岡崎陸運社長の林茂<ref>『[[#全岡崎|全岡崎知名人士録]]』 30頁。</ref>、前述の大竹庄二らは誘い合わせて竹内の自宅を訪ねた。大竹は愛市連盟の中心人物でありながら<ref>『[[朝日新聞]]』1980年7月24日付朝刊、13版、14面。</ref>次第に太田派の林と気脈を通じるようになり、調停役を買って出た<ref>『東海タイムズ』1959年8月3日、1面、「地方史の〝四十八人〟(29)」。</ref>。3人が円満退陣をもちかけると、酒の入っていた竹内は大竹に「最初に4選をすすめた君が、今になって、やめよとは何事だ」と詰め寄り二人の間で激論が始まった。結局、この三者勧告も不調に終わった<ref name="tokai-times19590202" />。
 
同年[[2月19日]]には倉知桂太郎県議会議長、[[浦野幸男]]県議らが市役所を訪れ、6月に行われる[[第5回参議院議員通常選挙|参院選]][[愛知県選挙区]]に自民党公認候補として出馬する考えはないかと打診。竹内は翌日、「私は市政の現状予備将来に対して信ずるところがあって四度市長選に出ることを決心しているので、せっかくながら自民党県連のお申入れは受諾できない」と回答した<ref>『愛知新聞』1959年2月21日、1面、「市政の現状と将来考え 市長選出馬の決意変わらず 竹内市長、参院選推薦ことわる」。</ref>。[[岡崎商工会議所]]会頭の田口宗平、市議会議長の安藤平一、副議長の加藤錫太郎、実業家の大竹庄二、林茂ら各界有力者5名は、[[4月17日]]付の『[[東海愛知新聞|東海新聞]]』に、前年暮れから調整一本化工作を行い続けたが不調に終わった旨の声明書を発表した{{Refnest|group="注"|声明書の主要部分を抜粋する。「三十年来同志として友人として公私の交りをして来た太田、竹内両氏の激突の結果、市政の将来に抜き難い禍根を残すことは躍進発展の好機を迎えている岡崎市にとって非常なる損失となることは明かであります。旧臘来数回に亘り折衝し、万策を尽して調整一本化のための努力を行って来ましたが、残念ながら竹内氏の一方的拒否に遭い所期の目的を達することが出来ず、市民の各位の期待に答え得なかったことは衷心より遺憾とするものであります。」<ref>『東海新聞』1959年4月17日、1面、「五者調停、ついに実らず 竹内京治氏の一方的拒否で」。</ref>}}{{Refnest|group="注"|大竹庄二はこの年、市長選と同日に行われた市議会議員選挙に立候補し初当選した。1967年まで市議を2期務めた。}}。[[4月30日]]、岡崎を二分した市長選の投票が実施される。竹内は小差で落選<ref name="shinpen-5-41" />。