「ファン・マヌエル・ファンジオ」の版間の差分

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愛称 = |
国籍 = {{ARG}} |
出身地 = [[ブエノスアイレス]] バルカルセ|
生年月日= {{生年月日と年齢|1911|6|24|no}}|
死没地 = {{ARG}}<br>[[ブエノスアイレス]] |
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== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
首都ブエノスアイレスから350km離れたバルカルセ{{enlink|Balcarce, Buenos Aires|Balcarce}}で、イタリア系移民二世として生まれる。父親はペンキ職人で、6人きょうだいの四男が[[6月24日]]の「[[洗礼者ヨハネ|聖ヨハネ]] (San Juan Bautista) の日」に生まれたことから「ファン」と名付けた<ref>『ファンジオ自伝』、13頁。</ref>
 
幼い頃から機械いじりが好きで、13歳になると地元の修理工場で整備工として働き始める。また、サッカーが得意で、プレースタイルから「エル・チュエコ(がに股)」というあだ名を付けられた<ref>『ファンジオ自伝』、15頁。</ref>。軍隊で[[兵役]]を務め終えると独立し、自分の修理工場で自動車を改造して、[[1934年]]からレースに出場するようになった。
 
=== ヨーロッパ進出 ===
ファンジオは主に南米で行われていた長距離ロードレースで活躍し、1940年にはブエノスアイレスと[[ペルー]]の[[リマ]]を往復する約9,500kmのグランプレミオ・デル・ノルテで優勝。1940年と1941年にはアルゼンチンの国内選手権を制した。当時のライバルはガルベス兄弟([[オスカル・ガルベス]]とフアン・ガルベス)で、ファンジオ派とガルベス派のファンが対立するほど人気は高かった。
 
第二次世界大戦後の1947年から国内でレース活動を再開し、ヨーロッパからゲスト参戦したトップドライバーたちと互角に競い合い、本場ヨーロッパで実力を試す希望を持つようになる。1948年より[[フアン・ペロン|ペロン]]政権の後援で、アルゼンチン自動車クラブのメンバーとしてオスカル・ガルベスらと共にヨーロッパへ腕試しに向かう。1949年はサンレモGP、ポーGP、マルセイユGP、モンツァGPなどで連勝を重ね、国際的な一流ドライバーと見なされるようになった。
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== 業績 ==
[[ファイル:Juan Manuel Fangio statue Mercedes-Benz Museum.jpg|thumb|right|180px|[[シュトゥットガルト]]のメルセデス・ベンツ博物館にあるファンジオ像]]
F1通算24勝は[[1968年]]に[[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]]が更新するまで個人最多勝記録であった。不滅と言われたワールドチャンピオン獲得5回もミハエル・シューマッハに抜かれたが、46歳での最年長チャンピオンという記録は未だ破られていない(最年長優勝は[[ルイジ・ファジオーリ]]の53歳)。[[第二次世界大戦]]前のドライバー中心で始まった草創期のF1ではこの年齢は珍しくなかったが、ドライバーの事故死の危険が極めて高かった時代でもあった。
 
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== 参考文献 ==
*ファン・マヌエル・ファンジオ/マルチェロ・ジャンベルトーネ共著、[[高斎正]]訳 『ファンジオ自伝』 [[二玄社]] 1974年(原題:''My Twenty Years of Racing'' )
*[[ポール・フレール]]著、[[小林彰太郎]]・武田秀夫訳『新ハイスピード・ドライビング』[[二玄社]] ISBN 4-544-04044-2
*[[ポフレル]]著、相原俊樹[[小林彰太郎]]・武田秀夫 死のレ新ハイスピス 1955年 ルマド・ドライビ 二玄社 ISBN 4-544-0404304044-42
*マーク・カーン著、相原俊樹訳 『死のレース 1955年 ルマン』 二玄社 ISBN 4-544-04043-4
 
== 関連項目 ==