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== 経歴 ==
[[佐賀県立佐賀工業高等学校|佐賀工業高校]]から[[三井化学|東洋高圧大牟田]]を経て、投手として[[1955年]]に[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]へ入団。2年目の[[1956年]]に1[[4月15日]]の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]戦[[ダブルヘッダー]]第2試合([[大阪球場|大阪]])で初めて先発投手を任されるが、シーズン中盤には野手転向。3年目の[[1957年]]は[[河野昭修]]と[[一塁手]]のレギュラーを争い、[[三塁手]]や[[外野手]]としても起用される。同年は50試合に先発出場。[[1958年]]の[[読売ジャイアンツ|巨人]]との[[1958年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では全7戦中5試合に先発出場するが、19打数3安打と活躍できなかった。[[1960年]]7試合に4番で起用されるなど打線の中軸に定着7試合に四番打者として起用され自己最多の15本塁打を放つ。[[1961年]]は主に3打者、[[右翼手]]として打率.306(ベストテン6位)12本塁打を記録し、自身唯一の[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場も果。[[中西太]]が故障し、[[豊田泰光]]がチームを離れた後の中心打者と目され、[[1963年]]の巨人との[[1963年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第4戦([[後楽園球場|後楽園]])[[中村稔 (投手)|中村稔]]から本塁打を放つ。[[1964年]]には2度目の[[規定打席]](18位、打率.265)に達した。しかしが、[[1965年]]には故障もあって調子を崩し、球団の経費節減策や外国人中心の打線編成もあって、[[1966年]]に[[船田和英]]とのトレードで[[読売ジャイアンツへ移籍。[[ON砲]]に続く5番打者の定着が期待されたが、移籍後は故障がちになり出場機会も少なくなる。[[1967年]]は同年に西鉄から移籍してきた[[高倉照幸]]がシーズン中盤に故障したこともあり、[[8月]]から[[左翼手]]や右翼手に起用されて41試合に先発出場。[[8月6日|6日]]の[[東京ヤクルトスワローズ|サンケイ]]戦([[明治神宮野球場|神宮]])で通算1000試合出場を達成し、[[石岡康三]]から本塁打を放つなど2打数2安打1打点と活躍。[[8月19日|19日]]の[[中日ドラゴンズ|中日]]戦(後楽園)では1-1の同点で迎えた9回裏の1死2、3塁の場面、[[国松彰]]の代打に当日は登板のなかった[[金田正一]]を送るが、中日は金田を敬遠<ref>金田は打者としても強打者で、これまで7度の敬遠もあった</ref>。満塁となった場面で打席に立った田中は[[板東英二]]からサヨナラ満塁本塁打を放つ<ref>[[講談社]]刊 [[宇佐美徹也]]著「日本プロ野球大鑑」615ページ</ref>。打率.291と好調を維持してチームのリーグ3連覇に貢献し、[[9月]]には巨人の第33代四番打者として2試合に出場。同年の[[オリックス・バファローズ|阪急]]との[[1967年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は第1戦のみの出場に終わった。[[1969年]]に[[柳田真宏|柳田俊郎]]との交換トレードで西鉄へ復帰し、同年に現役を引退
 
その引退後は[[稲尾和久]]の下、西鉄・太平洋で一軍コーチ([[1970年]] - [[1971年]])、二軍コーチ([[1972年]] - [[1973年]])、一軍打撃コーチ([[1974年]])を務めた。、スカウト([[19761975年]]からは)、[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]で二軍コーチを務め、[[19771976年]]より)、スカウトに転身。[[19951977年]]からは - [[1994年]])、チーフスカウトに就任し、([[1995年]] - [[2000年]])を歴任。ロッテ時代は[[大塚明]]・[[サブロー]]の獲得に貢献し、退団後の[[2001年]][[2月24日]]に[[肝硬変]]のため死去。
[[長嶋茂雄]]、[[王貞治]]に続く五番打者への定着が期待されたが、移籍後は故障がちになり出場機会も少なくなる。しかし翌[[1967年]]は[[高倉照幸]]がシーズン中盤に故障したこともあり、[[8月]]から[[左翼手]]、右翼手として起用され41試合に先発出場。打率.291と好調を維持しチームのリーグ3連覇に貢献した。[[9月]]には巨人の第33代四番打者として2試合に出場している。同年の[[オリックス・バファローズ|阪急]]との[[1967年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は第1戦のみの出場に終わった。[[1969年]]に[[柳田真宏|柳田俊郎]]との交換トレードで西鉄へ復帰し、同年に引退。
 
その後は[[稲尾和久]]の下、西鉄・太平洋で一軍コーチ([[1970年]] - [[1971年]])、二軍コーチ([[1972年]] - [[1973年]])、一軍打撃コーチ([[1974年]])を務めた。[[1976年]]からは[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]で二軍コーチを務め、[[1977年]]よりスカウトに転身。[[1995年]]からはチーフスカウトに就任し、[[2000年]]退団。[[2001年]][[2月24日]]に[[肝硬変]]のため死去。
 
== 人物 ==
[[1967年]]の[[8月19日]][[中日ドラゴンズ]]戦では1対1の同点で迎えた9回裏、1死二、三塁の場面で巨人は代打に[[金田正一]]を送るが、中日は金田を敬遠<ref>金田は打者としても強打者で、これまで7度の敬遠があった</ref>し、満塁として田中と勝負したが、田中は[[小川健太郎]]からサヨナラ満塁本塁打を放ち、巨人が勝利している<ref>講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」615ページ</ref>。
 
== 詳細情報 ==
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=== 記録 ===
; 節目の記録
* 1000試合出場:1967年8月76日 ※史上127人目
; その他の記録
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:1回 (1961年)