削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
9行目:
 
まず天文学の歴史について触れる。天文学は自然科学として最も早く古代から発達した学問である<ref>[[岩波書店]]『[[広辞苑]]』</ref>。[[先史時代]]の文化は、[[古代エジプト]]の記念碑や[[ヌビアのピラミッド]]などの[[天文遺産]]を残した。発生間もない文明でも、[[バビロニア]]や[[古代ギリシア]]、[[古代中国]]や[[古代インド]]など、そして[[イラン]]や[[マヤ文明]]などでも、夜空の入念な観測が行われた。中世にはイスラーム世界で天文台が建設され、[[964年]]には[[アブドゥル・ラフマーン・スーフィー]]によってアンドロメダ銀河が天の川の中から発見され『[[星座の書]]』に記録された。なお、もともと天文学と占星術は一体不可分であった。それらが徐々に分離されるようになったのは17世紀以降、[[啓蒙時代]]のことである。一体不可分の状態から、占星術的な要素を取り除いていった結果、近代の天文学となっていった。{{Seealso|:en:Astrology and astronomy}}
ヨーロッパのルネサンス期、[[ニコラウス・コペルニクス]]は惑星は太陽を中心に運動しているとする説([[太陽中心説]]、[[地動説]])を提唱した。これによって天文学史に名を残している。ただし惑星の運動に関しては当時の他の人々と同様に「完全な円」が原理として働くと信じて疑わず、完全円を合成した線上を動くと考えていた。一方、学生時代に[[新プラトン主義]]に傾倒し[[数学]]に熱中した[[ヨハネス・ケプラー]]は、16世紀随一の天体観測家だった[[ティコ・ブラーエ]]という人物の助手となる機会を得て、しかもティコの死後、幸運にもティコが蓄積した膨大な量の観測データを引き継ぐことができた。数学が得意なケプラーはそれを元に綿密な計算と分析を行い、火星の特徴ある動きについて仮に[[楕円]]軌道だと仮定してティコの長年のデータを検証したところ、その仮定と合致することを見出した。こうして「惑星は、太陽を焦点のひとつとする楕円軌道上を動く楕円運動をしている」「惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積(面積速度)は、一定である。」とする法則([[ケプラーの法則]]、第一および第二)を[[1609年]]に発表した。ケプラーより8歳弱年上だった[[ガリレオ・ガリレイ]]は(音響の実験を行い数学的分析を行っていた父親の影響もあり)やはり数学を得意としていて大学で数学・幾何・天文学<ref>当時、天体は完全な円(や円の合成)で運動すると信じられていたので、天文学と幾何学はほとんど同一視されていて、大学のカリキュラムもそういう思想で編成されていたので、ひとりの教授が数学・幾何・天文学を並行的に教えることはむしろ自然だったわけである。</ref>を教えていた人物であるが、[[1608年]]のこと、オランダで「[[望遠鏡]]」という遠くのものを見るための装置に関して特許の申請がされた、という話を聞くと、それを天文観測に活用することを思いつき、さっそくその望遠鏡なるものに関する情報を集め、[[1609年]]にはそれを自作し、(ティコの時代でも天文観測は肉眼で行っていたわけだが)天文観測に革新をもたらした。天文学が現代科学の仲間入りをするためには、[[望遠鏡]]の使用が欠かせなかった。またガリレオは、(一旦、物理学の話に寄るが)落体に関して実験を行い、ふたつの法則を見出すことに成功した。ひとつは物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということ、であり、2つ目は物体が落下するときに落ちる距離は落下時間の2乗に比例する、というものである。これが当時広く受け入れられていたアリストテレス的物理学とは異なる物理学を構築するきっかけのひとつとなり、後の1687年に[[アイザック・ニュートン]]<ref>ニュートンは、ケプラー同様に、新プラトン主義や数学に熱中した。</ref>が『[[自然哲学の数学的諸原理]]』を刊行し[[ニュートン力学]]を発表することにも繋がったわけで、それが(その後の長い進展も経て)現代の天体物理学や宇宙物理学へと繋がってゆくことになる。ニュートンは[[光学]]や[[プリズム]]についても研究し、1704年に『[[光学 (アイザック・ニュートン)|光学]]』という書物も刊行したわけだが、このニュートンが反射望遠鏡([[ニュートン式望遠鏡]])も発明し、このおかげで天体観測の精度は上がることになったわけで、こうしてニュートンは(近・現代天文学に必要不可欠な[[古典物理学]]の土台部分の構築によってだけでなく)天体望遠鏡の改良によっても大きく天文学に貢献しているわけである。 > [[#歴史]]
 
なお、上ですでに解説したように(17世紀までは一緒だったが、その後に徐々に分離することに成功したわけで、すでに別物なので)