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== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
2000年、北海道千歳市の社台ファームにて誕まれる。父は1989年の全米年度代表馬であり、種牡馬として日本に輸入されて以降リーディングサイアーの地位を占め続けていた[[サンデーサイレンス]]。母のポインテッドパスはフランスで2戦0勝の成績だったが、日本への輸入前にカルヴァドス賞(G3)の勝利馬フェアリーパス(父・[[アイリッシュリヴァー|Irish River]])を生んでいた<ref name="yu0307">『優駿』2003年7月号、pp.28-31</ref>。日本においてポインテッドパスはサンデーサイレンスとの交配が繰り返されていた<ref name="yu0307" />。
 
社台ファーム代表[[吉田照哉]]によると、幼駒の頃は馬体の形こそ良かったものの、脚長でひょろりとした頼りない姿であったという<ref name="yu0307" />。兄のチョウカイリョウガ、アグネスプラネットがいずれも好馬体の持ち主だったこともあり、「馬体だけ比べるとどうしても見劣っていたネオユニヴァースが、それ以上の活躍をできるのかな、と思ってしまった」と回顧している<ref name="yu0307" />。ただし誕生日が5月21日と遅生まれだったことからため、やはり後年「成長が遅れていたわけだし、[[飛節]]の折りが深くて、やや腰が甘い感じに見えるのも、サンデーサイレンスそっくりの特徴だった」と述べており、出生当時の自身の見立てが誤っていたとしている<ref name="yu0307" />。調教を任されることになる[[瀬戸口勉]]は、細身ながら骨格があり、さらに動きに柔らかさもある様子を見て「そこそこ走ってくれるんじゃないか」という程度に考えたという<ref name="meiba">『名馬物語 2001~2010』pp.65-69</ref>。
 
競走年齢の2歳に達した2002年、瀬戸口厩舎([[栗東トレーニングセンター]]の瀬戸口厩舎に入る。僚馬には同世代の2歳王者となる[[エイシンチャンプ]]がいた。調教ではエイシンチャンプともども後脚で立ち上がってしまうような面も見せていたが<ref name="yu0306">『優駿』2003年6月号、pp.8-11</ref>、調教騎乗を担当していた[[西谷誠]]は「乗り味が全然違う」とその素質を高く評価した<ref name="meiba" />。遅生まれだったこともあり、牧場では3歳でのデビューと見込んでいたが、調教は至極順調に進み、初戦は11月に迎えることになった<ref name="yu0307" />。
 
=== 戦績 ===
==== 重賞初勝利まで ====
2002年11月9日、[[京都競馬場|京都開催]]の新馬戦でデビュー。ネオユニヴァースは[[福永祐一]]を鞍上に1番人気の支持を受けると、2番手追走から抜け出し、2着に1馬身半差を付けて初勝利を挙げた<ref name="meiba" />。競走後、福永は検量室前で出迎えた瀬戸口らに「今までにこんな男馬に乗ったことがない。GI級ですよ」と語った<ref name="meiba" />。
 
続く中京2歳ステークスでは[[池添謙一]]が鞍上を務め、このレースでも1番人気に推されたが最後の直線で2頭に交わされ、勝ち馬からタイム差なしの3着となる<ref name="yu0808">『優駿』2008年8月号、pp.58-65</ref>。しかし、福永が鞍上に戻った翌年1月の白梅賞では好位から抜け出して2勝目を挙げると、2月には[[きさらぎ賞]](GIII)で[[重賞]]に初出走。[[シンザン記念]]の2着馬マッキーマックス、同勝利馬の[[サイレントディール]]に次ぐ3番人気であったが、最終コーナーで先頭に立ってそのままゴールまで押しきり、サイレントディールを半馬身退けて勝利<ref>『優駿』2003年4月号、p.64</ref>。福永は「まだデビュー戦の頃の出来には及ばない。もっと良くなる」と語った<ref name="yu0808" />。
 
==== 騎手交代 ====
この勝利でネオユニヴァースは春のクラシック戦線における有力馬の1頭となったが、[[皐月賞]][[トライアル競走]]第1戦の[[弥生賞]]には前年12月に[[朝日杯フューチュリティステークス]](GI)を制していた僚馬・エイシンチャンプも出走を表明しており、同馬の主戦騎手も福永が騎手を務めていたため、仮にネオユニヴァースも弥生賞に出走するとなった際の福永の選択に注目が集まった<ref name="meiba" />。福永は瀬戸口とも相談の上でエイシンチャンプに騎乗することになり、ネオユニヴァースは弥生賞を回避して次走を[[スプリングステークス]]とすることに決まった。そのスプリングステークスからは吉田照哉の推薦で、短期免許制度を利用して来日していたイタリア人騎手、ミルコ・デムーロを新たな鞍上として迎えられることになった<ref name="meiba" />。
 
デムーロとの新コンビで迎えたスプリングステークス(GII)では、中団追走から第3~最終コーナーで先団に進出、1番人気の[[サクラプレジデント]]に1馬身4分の1差を付けて勝利した<ref>『優駿』2003年5月号、p.76</ref>。この競走では15番枠から発走し、距離のロスになるとされる馬群の外側を終始回り続ける展開となっていたが、これは「中距離以上でスタミナがもつか」「騎手との折り合いを保てるか」という2点を確認するため、デムーロが意図して行ったものだった<ref name="yu0307-2" />。後にデムーロはこの競走を回顧し、「調教と同様にレースでも折り合いの不安がなく、素晴らしい瞬発力と持久力を合わせもっていることが確認できた」と述べている<ref name="yu0307-2">『優駿』2003年7月号、pp.25-27</ref>。またこの頃には厩舎でシャンポンという装具を着けられたことで立ち上がる癖が矯正され、それまで余分な負担が掛かっていた後躯が強化されつつあったという<ref name="yu0808" />。
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皐月賞のあとデムーロはイタリアに帰国。当時デムーロは本国でブルーノ・グリツェッティ厩舎と騎乗契約を結んでおり、グリツェッティの意向によっては続く[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]に騎乗できない可能性もあった<ref name="yu0307-2" />。しかし吉田照哉が同厩舎に所有馬を預けていた縁もあり、デムーロは再びイタリアを離れ、日本で騎乗することを許される<ref name="yu0307-2" />。そして6月1日、ネオユニヴァースとデムーロは東京優駿(日本ダービー)へ出走。前日には台風の影響から大雨が降り、当日の馬場状態は「重」となった<ref name="yu0307-3">『優駿』2003年7月号、pp.20-22</ref>。ネオユニヴァースは単勝2.6倍で1番人気、サクラプレジデントが3.6倍の2番人気で、この2頭が「二強」とみられ、3番人気には皐月賞不出走で[[青葉賞]](GII)を制してきた[[ゼンノロブロイ]]が入った<ref name="yu0307-3" />。スタートが切られるとゼンノロブロイ、サクラプレジデントはいずれも先行し、ネオユニヴァースは後方につける<ref name="yu0307-3" />。ネオユニヴァースは、状態が悪いため他馬が避けていた内寄りのコースを通って第3コーナーから先団へ進出。最後の直線では先に抜け出したゼンノロブロイを楽にかわして優勝を果たした<ref name="yu0307-3" />。着差は半馬身であったが、デムーロがゴール前でガッツポーズを取ったほど余裕のある勝利であった<ref name="yu0307-3" />。
 
皐月賞、ダービーの二冠制覇は1997年の[[サニーブライアン]]以来6年ぶり19頭目、外国人騎手の東京優駿制覇は史上初の記録となった<ref name="yu0307-4">『優駿』2003年7月号、pp.138-139</ref>。観客からは「デムーロ」コールが送られ<ref name="yu0307-4" />、デムーロは感泣した姿をみせた<ref name="yu0307-2" />。デムーロは後に「その喜びは自国のダービーを制したときに比べても、勝るとも劣らないものだった。これだけ多くのファンに見守られ、大きな声援を送ってもらえる競馬なんてそうはない。まして今回は、その舞台がダービーだったわけだから。僕はまるで自分がサッカーの[[中田英寿|ナカタ(中田英寿)]]になったような錯覚に陥った」と感想を述べた<ref name="yu0307-2" />。また、瀬戸口もダービー初勝利であり、「ダービーは競馬人の夢。その頂点に立つことができて本当に嬉しい」などと語った<ref name="yu0307-4" />。<br />なお10着となったエイシンチャンプの福永は後年「ネオユニヴァースには大きなポテンシャルを感じていたし、やっぱりああいう馬がダービーに勝つんだなと思った。でも、自分ひとりの力で上がってきたジョッキーではないので、あの選択はまちがってなかったと思うし、後悔もしていない」と述べている<ref>『優駿』2015年6月号、pp.28-29</ref>。
 
==== 宝塚記念出走 ====
日本ダービーの優勝馬は休養に入り秋に備えるという路線が常道となっていたが、6月16日、ネオユニヴァースが春のグランプリ・宝塚記念に出走することが決まり、翌日一斉に報じられた<ref name="yu0308">『優駿』2003年8月号、pp.128-132</ref>。同年のクラシック優勝馬が宝塚記念に出走するのは初めてのことであった<ref name="yu0308" />。吉田照哉によればダービー後も体調が良いことに加え、年長の4歳以上馬とは[[負担重量]]で5kgの差があるということが出走に踏み切った最大の理由だったという<ref name="yu0308" />。宝塚記念には過去7頭の3歳馬が出走し、前年に同馬主の[[ローエングリン (競走馬)|ローエングリン]]がはじめて馬券配当圏内の3着に入っていた<ref name="yu0703-5">『優駿』2003年7月号、pp.7-10</ref>。
 
宝塚記念の出走馬を選定するファン投票では6位<ref name="yu0703-5" />、当日は[[JRA賞|前年度代表馬]]の[[シンボリクリスエス]]に次ぐ2番人気となった<ref name="yu0308" />。吉田は競走前「出した甲斐があった。去年の年度代表馬とダービー馬の対決をお客さんが見たいと思っていることの証。ゴール前の[[一騎討ち]]があれば最高だと思う」と語った<ref name="yu0308" />。ほか、[[天皇賞|春の天皇賞]]を制してきた[[ヒシミラクル]]、国内外でGI競走6勝の[[アグネスデジタル]]、前年度優勝馬[[ダンツフレーム]]、GI競走2勝の[[イーグルカフェ]]ら、ファン投票上位の多くが顔を揃えた<ref>『優駿』2003年6月号、pp.38-39</ref>。
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==== クラシック三冠を逃す ====
宝塚記念のあとは社台ファームで夏を過ごし、系列の[[山元トレーニングセンター]]での調整を経て8月28日に栗東に帰厩<ref>『優駿』2003年10月号、pp.10-12</ref>。秋は1994年の[[ナリタブライアン]]以来となる史上6頭目のクラシック三冠達成が懸かる菊花賞を目標に、[[神戸新聞杯]](GII)から始動した。デムーロの短期免許期間が春で満了していたことから、鞍上には半年ぶりに福永祐一を迎えた。この競走にはサクラプレジデント、ゼンノロブロイといった春の有力馬も顔を揃え、夏の[[札幌記念]](GII)で古馬(4歳以上馬)を破っていた<ref name="yu0808" />サクラプレジデントが1番人気、ネオユニヴァースはそれに次ぐ2番人気となる<ref name="yu0311">『優駿』2003年11月号、p.77</ref>。道中ではゼンノロブロイと並ぶ形で中団を進んだが、後方からのまくりをかけたサクラプレジデント、さらに同馬を一気に抜き去ったゼンノロブロイに後れをとり、約4馬身差の3着となった<ref name="yu0311" />。このときネオユニヴァースは歯替わりの最中で、操縦性に影響する[[ハミ (馬具)|ハミ]]受けの具合が悪く、敗因が明らかであることから陣営はこの敗戦を大きく捉えることはなかったという<ref name="meiba" />。
 
次走、ネオユニヴァースが菊花賞へ臨むに当たり、日本中央競馬会は外国人騎手の取り扱いについて、「同一馬に騎乗して同一年にJRAのGIを2勝以上した場合、その年のGIで当該馬に騎乗する場合に限り、そのGI当日のみ免許を発行する」という特例措置を発表<ref name="yu0808" />。これにより、菊花賞は再びデムーロを鞍上にしての出走が叶うこととなった<ref name="yu0808" />。なお10月19日、菊花賞に先立って行われた牝馬三冠最終戦・[[秋華賞]]では、春の[[桜花賞]]、[[優駿牝馬|優駿牝馬(オークス)]]を制した[[スティルインラブ]]が1986年の[[メジロラモーヌ]]以来となる17年ぶりの「牝馬三冠」を達成していた<ref name="yu0312">『優駿』2003年12月号、pp.30-35</ref>。
 
10月26日、菊花賞を迎え、ネオユニヴァースは単勝オッズ2.3倍の1番人気に支持される。2番人気には2.5倍でゼンノロブロイ、3番人気には6.1倍でサクラプレジデントが続いた<ref name="yu0312" />。スタートが切られると、ネオユニヴァースは道中で12番手を追走。周回2周目の第3コーナーから5番人気の[[ザッツザプレンティ]]が一気にスパートを掛けて先頭に立ち、ネオユニヴァースもこれを追い2番手で最後の直線に入った<ref name="yu0312" />。直線ではザッツザプレンティが逃げ粘り、ネオユニヴァースは差を詰められず徐々に失速<ref name="yu0312" />。残り100メートルでは後方から追い込んだ[[リンカーン (競走馬)|リンカーン]]にもかわされ、勝ったザッツザプレンティから1馬身弱の差の3着に終わり、三冠を逃した<ref name="yu0312" />。競走後、デムーロは「大きく外を回されることもなかったし、ごちゃつかずに運べたので外枠は良かった。状態も良かった」、「距離が微妙に長かった」と、淡々と語るにとどめた<ref name="yu0312" />。
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==== 4歳以降 - 故障により引退 ====
2004年、4歳となったネオユニヴァースは休養を終え、4月4日の[[大阪杯]](GII)から始動。重賞4勝の[[バランスオブゲーム]]、前年の[[エリザベス女王杯]]優勝馬[[アドマイヤグルーヴ]]といった実績馬が揃い、また負担重量は59kgとはじめて経験するものだったが単勝1.8倍の1番人気に支持される<ref name="yu0405">『優駿』2004年5月号、p.68</ref>。レースでは直線入口で2番手と積極的にレースを進め、逃げ粘るマグナーテンをゴール前でアタマ差競り落としてダービー以来の勝利を挙げた<ref name="yu0405" />。
 
5月2日に迎えた天皇賞(春)(GI)では、前年の3歳クラシックで鎬を削った4歳馬が人気上位を占め、前哨戦の[[阪神大賞典]]を制したリンカーンが1番人気、ネオユニヴァース2番人気、ザッツザプレンティ3番人気、ゼンノロブロイ4番人気という順となった<ref name="yu0406">『優駿』2004年6月号、pp.46-49</ref>。しかしレースでは大逃げを打った5歳馬[[イングランディーレ]]が2着ゼンノロブロイに7馬身差をつけて逃げきり<ref name="yu0406" />、その後方でネオユニヴァースは10着と大敗を喫した<ref name="yu0410">『優駿』2004年10月号、pp.6-7</ref>。
 
その後は前年も出走した宝塚記念へ向けて調整されていたが、その過程で右前脚に浅[[屈腱炎]]および球節亀裂骨折を生じていることが判明し、放牧に出される<ref name="yu0410" />。骨折については天皇賞の競走中に生じた可能性が高いと考えられ、担当厩務員の松久月広は「痛みをもっていることに気づいていれば、屈腱炎を併発することはなかったかもしれない」と悔いたという<ref name="meiba" />。以後治療に専念していたが、9月に引退・種牡馬入りが発表され、同月20日に[[札幌競馬場]]で引退式が行われた<ref name="yu0410" />。
 
=== 種牡馬時代 ===