「富士登山」の版間の差分
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; 歴史
: 古来から北口や裏口とも呼ばれ、前述する「吉田口登山道」と江戸時代後期の富士講隆盛までは優勢であった「船津口登山道」との大きく2つのルートに由来する。なお、八合目で須走口に合流することから、そちらよりは新しいと考えられている。
: 「吉田口登山道」は、[[富士上吉田町|吉田]](上吉田、標高850m)によって管理されていたルートであり{{Sfn|伊藤太一|2009}}、現在の吉田口六合目から頂上までの由来である。二合目には[[文武天皇]]3年([[699年]])に富士山最古の神社と称する小室浅間神社(現在の[[冨士御室浅間神社]])が鎮座しており、
: 「船津口登山道」(河口口登山道・河口湖口登山道)は、[[河口湖町|河口]](標高850m)によって管理されていたルートであり{{Sfn|伊藤太一|2009}}、現在の富士スバルライン五合目から吉田口六合目までの由来である。河口には噴火を鎮めるため[[貞観 (日本)|貞観]]7年([[865年]])に[[河口浅間神社]]が鎮座しており、また[[天徳 (日本)|天徳]]2年([[958年]])には対岸の[[勝山村 (山梨県)|勝山]]に前述する小室浅間神社(現在の冨士御室浅間神社)の里宮が創建されている。また、五合目の小御岳頂上には[[承平]]7年([[937年]])には小御岳神社(現在の富士小御嶽神社)が鎮座している。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、平安時代から遅くとも室町時代には開かれていたと考えられている。元は[[八神峰|白山岳]]頂上への直登ルートも持っていたが、[[元弘]]元年(1331年)の[[正平地震#元弘元年の地震|駿河地震]]で崩壊したとされ、小御岳・泉ヶ滝を経由し五合目(中宮)で吉田口に合流するルートが主となった{{Sfn|伊藤太一|2009}}。他に、小室浅間神社の里宮(勝山)から本宮(吉田口二合目)へのルートを利用し船津・吉田胎内を参拝して吉田口馬返しへ合流する登山客がいたり{{Sfn|伊藤太一|2009}}、また後には小御岳から御中道を経由して吉田口六合目(現在の富士スバルライン五合目から吉田ルート六合目)へ合流することもできた。このように、複数の個所で合流するようになってしまったことから、山役銭(登山料)の取り合いで吉田とは論争になった{{Sfn|伊藤太一|2009}}。しかしながら、[[天文 (元号)|天文]]11年(1542年)の宿坊の記録では中宮を河口御師が管理しており、また吉田口二合目も小室浅間神社を中心とする勝山の土地であり(2019年現在も[[富士河口湖町]]の飛び地である)、さらに頂上の薬師堂の管理も河口御師である[[大石村 (山梨県)|大石]]の者が大宮(浅間大社)より任されていたため、当時は吉田よりも優勢であった{{Sfn|伊藤太一|2009}}。宝永4年(1707年)の宝永大噴火で他の登山口が30年以上不通となったため、河口はさらに発展するが、町民の間に富士講が流行すると、武士を主な支持層としていた河口は当初これを避けたため、吉田のほうが優勢となり、天明元年(1781年)までには薬師堂の権利を吉田に奪われ、さらに[[文化 (元号)|文化]]7年(1810年)の山役銭論争で吉田には完全に敗れ衰退した{{Sfn|伊藤太一|2009}}。その後も完全に寂れたわけではなく、後述する「精進口登山道」が開通すると四合目で合流したり、さらに船津から精進口三合目までバスが通るようになると、船津口三合目から精進口三合目までつながるバスルートと船津口四合目へつながる徒歩道の2つの道ができるが、富士スバルラインが開通すると船津からのバスも廃止され、徒歩で登山する人もいなくなり、実質的に廃道となった。
: 「本栖口登山道」(本栖湖口登山道)は[[富士河口湖町|本栖]]が管理していた登山道であり、江戸時代に書かれた『駿河国新風土記』によると[[1570年代]]までは御師がいたとされるが、河口御師に合流して消滅した{{Sfn|伊藤太一|2009}}。そのため、どのようなルートであったかは不明である。
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