「エドゥアール・モルティエ」の版間の差分

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同年[[9月20日]]から始まった[[ウルム戦役]]ではグラン・タルメの臨時統制軍である第8軍団を指揮した。ナポレオンは北方に向かって陽動作戦を行ったが、彼の部隊は余りにも進軍しすぎた為に他軍団から孤立してしまった。ロシアの[[ミハイル・クトゥーゾフ|クトゥーゾフ]]将軍はこれを見逃さず、テオドール・ガザン将軍率いる第2師団を巧みに誘引すると彼らを挟み撃ちにした。モルティエは急いで[[ピエール・デュポン]]率いる第1師団を派遣し、デューレンシュタインの戦いが起こった。両軍は夜通し激しく衝突したが、モルティエとデュポンは何とかガザンの救援に成功した。味方は10,000人中、4,000人近く<ref>大半がガザン指揮下の兵士</ref>が死傷したが、敵軍も24,000人中4,000人近くが死傷し、フランス軍の辛勝に終わった。<ref>損害が大きかった為、[[アウステルリッツの戦い]]には参戦出来なかった。</ref>
 
[[1806年]]に[[第四次対仏大同盟]]が結成されるとモルティエは再び第8軍団の軍団長に任命された。[[10月16日]]、[[ルイ・ボナパルト]]率いるオランダ軍と共に[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン選帝侯国]]に進駐し、同国を占領した。ヘッセンは[[ヴェストファーレン王国]]に組み込まれた。その後、[[11月22日]]に[[ハーメルン]]に侵攻し、同地を占領した。この際に10,000名ものプロイセン兵を降伏させた。さらに[[11月29日]]に[[ニーンブルク/ヴェーザー]]を占領し、2,911人のプロイセン兵を捕獲した。その後、[[ハンブルク]]、[[ブレーメン]]と続けざまに侵攻、占領した。さらに[[アンクラム]]、[[フリートラントの戦い|フリートラント]]で戦い、[[コルベルク]]を包囲した。
 
[[1808年]][[7月2日]]、一連の活躍により、[[トレヴィゾ]][[公爵]]となった。短期間同地に滞在後、[[半島戦争]]の為スペイン方面に派遣された。半島戦争では第5軍団を率い、同年[[11月30日]]にはソモシエラで戦った。
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[[1814年]]の[[第六次対仏大同盟|フランス国内戦役]]では主に後衛部隊を率い、[[マルモン]]と共に各地を転戦、顕著な働きを見せた。
ナポレオンが第6次対仏同盟に降伏すると、[[ブルボン家|ブルボン王家]]の下で[[6月1日]]に聖ルイ騎士勲位を授与され、[[6月4日]]には[[貴族|フランス貴族]]の一員となった。そして、[[6月21日]]には[[リール]]の第14軍管区司令官に任命された。
 
[[1815年]]、ナポレオンがセントヘレナから脱出するとブルボン王家を国境まで護送した後に、ナポレオンの下に復帰した。そして、再び古参親衛隊の指揮権を与えられた。しかし、[[ボーモン]]で坐骨神経痛を患い、[[ワーテルローの戦い]]には参戦出来なかった。