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チャウシェスク政権は、ルーマニアの全土に[[盗聴]]器を設置して、民衆を恐怖に陥れた。又、孤児たちを洗脳してセクリターテのメンバーにする一方で、全国の[[小学校]]にも授業時間にセクリターテのメンバーを間諜として送り込み、チャウシェスク政権への不平や不満を政府に報告していた。
 
しかし、[[1978年]]にチャウシェスク大統領の顧問も務めていた[[イオン・ミハイ・パチェパ]]がアメリカに亡命し、彼の手によりセクリターテの対外諜報網は壊滅状態に陥った。激怒したチャウシェスクはパチェパの暗殺を命じたが失敗に終わった。
===崩壊後===
[[1989年]]12月の[[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]の際にはセクリターテは政権側に立ち、[[ブカレスト]]では反体制に寝返った[[ルーマニア軍|国軍]]兵士との間に銃撃戦が発生した。
 
[[ニコラエ・チャウシェスク]]が銃殺されて[[ルーマニア社会主義共和国]]が倒され、民主国家が立てられた直後のルーマニアでは、[[東欧革命|民主化]]後の[[東ヨーロッパ]]で最も苛烈な[[非共産化|脱共産化]](旧共産党国家の政府関係者への弾圧)が行われ、セクリターテは解体された。それに伴い、「[[民主主義]]の敵だ」として民衆によってリンチ、殺害された共産党関係者も多かった。元セクリターテ長官のディンク、ヴラダ、ポープ、セクリターテの職員だった[[ニク・チャウシェスク]](ニコラエ・チャウシェスク大統領の次男)など、数百人の元セクリターテのメンバーが裁判にかけられた。最後の長官であるドラガッチャは、[[ハンガリー|ハンガリー第三共和国]]に亡命した。
 
また、民主政体下([[1990年]]以後)で施行された法律により、元セクリターテのメンバーに対して公職禁止が布かれた。元セクリターテのメンバーは、[[イスラエル]]の特務機関で働くか、極右民族主義政党「[[大ルーマニア党]]」に避難したり、または裏の犯罪組織に入ったと考えられている。元メンバーのドゥミトレスクは、[[ドイツ]]でルーマニア・ジプシー・マフィア「親衛隊」を率い、かつての同僚を引き込んでいた。また、セクリターテに育成途中だった子供たちの多くは、他の孤児同様に『チャウシェスクの子供たち』と呼ばれる[[ストリートチルドレン]]になったと言われている。