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Ks0502 (会話 | 投稿記録)
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1965年[[日本大学理工学部]]工業経営学科(現・[[生産工学部]])<ref name="challenge-5">『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.5-28。</ref>を卒業し、この当時父誠之(せいし)がトヨタ自動車販売で副社長<ref name="challenge-5" /><ref group="注釈">後に社長、会長を務めた。</ref>であり「トヨタでもレースをやるようだから、そっちへ行ったらどうか」と入社を勧め、1965年4月トヨタ自動車工業(現[[トヨタ自動車]])に入社<ref name="challenge-5" />し試作課(後に車両試験課に改名)配属となった。トヨタ社員時代の研修で、[[キャロル・シェルビー]]の元でレースシリーズに同行しエンジニアリングとレースチーム運営のノウハウを学ぶ。レース用エンジンコンストラクターになるのが夢<ref name="challenge-5" />で、1960年代後半には[[トヨタ・2000GT]]や[[トヨタ・7]]<ref name="challenge-5" />のエンジン開発を担当していた製品企画室第七技術部に所属<ref name="challenge-5" />するなどある程度夢を実現させていた<ref name="challenge-5" />が、アメリカ合衆国で[[大気浄化法]]が1970年に改正(マスキー法)されて自動車メーカーがその対策に多くの人員と予算を割かれるようになってモータースポーツから手を引き始め、会社がレースを止めるなら自分でチームを作れば良いと考え<ref name="challenge-5" />1972年11月トヨタ自動車工業を退社し1972年12月シグマ・オートモーティブ(現[[サード (企業)|サード]])を設立<ref name="challenge-5" />した。
 
日本人として初となる[[1973年のル・マン24時間レース]]にはトヨタのエンジンを前提としてエントリーしたが突然入手できなくなり、[[石原慎太郎]](当時衆議院議員)を介して[[松田耕平]](当時マツダの社長)を紹介してもらい、マツダオート東京チューンのワークス用エンジン2基を50万円で借り受け、[[富士グランチャンピオンレース]]用の自動車を改造した[[シグマ・MC73]]に搭載して参戦、この時はトランスミッショントラブルでリタイヤとなったもののトランスミッションの緊急手配を通じてマツダオート東京の[[大橋孝至]]と知り合った<ref name="challenge-5" />。
 
[[1974年のル・マン24時間レース]]には、[[富士グランチャンピオンレース]]用自動車の改造では限界があると感じ、[[グラウンド・エフェクト・カー]]<ref group="注釈">当時この考え方は[[フォーミュラ1]]でも登場したばかりだった。</ref>である[[シグマ・MC74]]を新造した<ref name="challenge-5" />。その際加藤はエンジンの専門家ではあってもレースの専門家ではなかったので、大橋にチームの運営を依頼、ル・マンに引き入れたことが、日本のル・マンブームの原点ともなった<ref name="challenge-5" />。この時は24時間持たせるために徹底的に補強し100kgも重くなった<ref name="challenge-5" />。周回数は155周に過ぎず正式な完走扱いにはならなかったが、最後まで走行した<ref name="challenge-5" />。