削除された内容 追加された内容
m 外部リンクの修正 http:// -> {{Wayback}} (www.geocities.jp) (Botによる編集)
42行目:
17歳の時に経済的理由から地元の高校を中退して上阪。住み込みの牛乳配達などをし、その後大阪府立天王寺高等学校定時制に編入<ref name="萩原/井沢2011年_p24-27">[[#萩原&井沢2011|萩原&井沢 2011]]、pp.24-27</ref>。そのとき同級生となった在日朝鮮人(尹元一:済州島出身で朝鮮戦争の難民として日本に密航)と意気投合し、それ以降どっぷり朝鮮半島と朝鮮語にのめりこんでいく。父親などの影響もあり、18歳の時に日本共産党に入党<ref name="萩原/井沢2011年_p24-27"/>。1963年、26歳の時[[大阪外国語大学]]に新設された朝鮮語学科に第一期生として入学<ref name="萩原/井沢2011年_p24-27"/>。大学卒業後、共産党の招請により『赤旗』(現「しんぶん赤旗」)記者となり、平壌特派員として勤務。平壌赴任[1972年(昭和47年)5月23日]後に、[[在日朝鮮人の帰還事業]]によって北朝鮮に帰った親友・尹元一を捜し回ったことが原因で、北朝鮮からスパイ容疑で国外追放[1973年(昭和48年)4月17日]となり、日本に送還される<ref>『ソウルと平壌』1989年10月、大月書店(絶版),その後、文春文庫から発行,p121・p174,萩原 遼</ref>。
 
以後、『赤旗』外信部で勤務するも、本人によれば日本共産党指導部の路線と合わなくなり、説明もなく赤旗記者を解任される<ref>1988年のソウルオリンピックの際には、赤旗記者として渡韓し、『[[文化評論]]』1988年8月号に「南北対立のソウル五輪」を、12月号に「『赤旗』記者のみた南朝鮮の人と生活」を発表している</ref>。これを機に[[1988年]](平成元年)12月に、「赤旗」を退職しフリーとなる。
すぐに『ソウルと平壌』を上梓した。その後、[[1989年]]12月から約3年間渡米し、ワシントンの国立公文書館で朝鮮戦争と北朝鮮史の調査研究に没頭し、『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』(文芸春秋1993刊)を書き上げる。
 
[[1994年]](平成6年)2月、在日朝鮮人の帰還事業によって日本から北朝鮮に帰国した10万人の在日朝鮮・韓国人とその日本人の配偶者の現状を救おうと、[[小川晴久]]元[[東京大学]][[教授]]、[[金民柱]]元朝鮮総連幹部らとともに[[北朝鮮帰国者の生命 (いのち) と人権を守る会]]を結成した。1999年には『[[#萩原1998a|北朝鮮に消えた友と私の物語]]』で第30回[[大宅壮一ノンフィクション賞]]を受賞<ref name = "yomiuri20171225" />。
 
[[2005年]](平成17年)に日本共産党のトップである[[不破哲三]]が[[朝鮮総連]]創設50周年記念祝賀会で祝賀の挨拶や朝鮮総連を褒め称えたことに対して、萩原は元党員や脱北者らなど朝鮮総連の罪への日本共産党の反省がないことへの批判に抗議のビラを撒いた。『「赤旗」退職後から元赤旗特派員”の肩書きで共産党を繰り返し誹謗したという理由で、党規違反』との名目で除籍された。萩原は著書などで[[金正日]]政権と日本共産党の関係を批判する等していたため[[北朝鮮拉致事件]]が話題を集め[[東京都議会]]選挙目前のタイミングでの除籍は物議をかもした。萩原は「不当な除籍であり、取り消しをもとめていく」として批判している<ref>『北朝鮮に消えた友と私の物語』p82萩原 遼、文藝春秋</ref>。