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== 経歴 ==
[[大分県立津久見高等学校|津久見高校]]では通算打率4割2分、.420・17本塁打17本をマーク、遠投が100㍍100m、走力は100㍍12100m12秒台と強打、強肩、俊足三拍子そろった選手であった。2年次の[[1967年]]、2年の時に[[左翼手]]として[[第39回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]に出場。[[吉良修一]]の好投もあって決勝に進出し、延長12回の熱戦の末、[[弘田澄男]]のいた[[高知中学校・高等学校|高知高]]を2-1で降し初優勝を飾った<ref>「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年</ref>。3年次の[[1968年]]には[[第50回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]では主将[[中堅手]]として出場し、エース石井吉左衛門([[鐘淵化学硬式野球部|鐘淵化学]])を擁し3回戦に進出するが、[[岩手県立盛岡第一高等学校|盛岡第一高校]]に敗れる<ref>「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年</ref>。
 
[[1968年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト]]9位で[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]に入団。[[1972年]]に頭角を現わし、[[外野手]]として65試合に先発出場して12本塁打を放つ。その後はやや低迷するが代打などで実績を積み、[[1976年]]には開幕から三番、[[指名打者]]に起用される。同年は初めて[[規定打席]](17位、打率.270)に達し、23本塁打を放つ。同年の[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]](指名打者)にも選出された。[[1980年]]からは[[田淵幸一]]が指名打者に定着したため、外野手も兼ねて出場。小柄な体格ながら「'''[[必殺仕事人]]'''」の異名を取る勝負強い打撃で、[[東尾修]]と共に弱小時代から黄金時代に至るまでのライオンズを支え続けた。
 
[[1982年]]、監督に[[広岡達朗]]監督に就任早々「彼は落伍者です」の烙印を押され腐りかけたが、同年のリーグ前期制覇・プレーオフ及び日本シリーズ制覇には多大の貢献を成した。特にプレーオフ第1・2戦においては日本ハムの抑えの切り札・[[江夏豊]]から2日連続で勝ち越し適時打を放つなど活躍し、1982年の日本ハムとのプレーオフ及び[[1983年]]の巨人との[[1983年の日本シリーズ|日本シリーズ]]ではMVPに輝いた。1983年には2度目の規定打席(11位、打率.297)に達する。[[1986年]]限りで現役引退。
 
引退後は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[文化放送]][[野球解説者|解説者]]([[1987年]] - [[1989年]])を経て、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]一軍打撃コーチ([[1990年]] - [[1995年]])を6年間務め、[[吉永幸一郎]]・[[浜名千広]]・[[村松有人]]・[[小久保裕紀]]を育てた。[[1996年]]からは、数年間同球団の編成部に所属。スカウトとして[[井口資仁]]・[[松中信彦]]らの入団に尽力した。退団後は[[西日本スポーツ]]の評論家となる。