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唐の支配に反発した新羅は、建前上は唐の臣下という立ち位置を維持しつつ、「百済と新羅は共に唐の領土なのであり、そこに国境はない」という論理の下、百済・高句麗の遺民を蜂起させつつ領土を蚕食する一方で、唐へは謝罪使を派遣するという方法で支配地を広げた{{Sfn|武田|1997|pp=382-383}}。唐側では繰り返される新羅の領土拡張と謝罪使に対し、新羅王の王位剥奪の問題にまで発展したのもの、西方で国力をつけた[[吐蕃]]の侵入で都[[長安]]までもが危険に曝される状態となり、遠方に位置する朝鮮半島を維持できなくなり、最終的に百済の故地は新羅の支配下に入った{{Sfn|武田|1997|pp=382-383}}。
 
百済滅亡の後、多くの百済の高官たちが新羅に降った{{Sfn|井上|1972|p=205}}。660年に行われた論功行賞では佐平の忠常、常永、達率の自簡などの百済遺臣に新羅の地位が与えられている{{Sfn|井上|1972|p=205}}。[[白村江の戦い]]の後には、多数の百済人が倭国へ亡命した。百済王子豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は倭国の朝廷から[[百済王氏|百済王]](くだらのこにきし)の姓を賜り、日本の氏族としての百済王氏を中心として倭国に根付いていった{{Sfn|坂元|1993|pp=102-105}}{{Sfn|武田|2005|pp=144-148}}。百済王族の血統は、百済最後の国王・[[義慈王]]の王子・[[百済王善光]]の15代後の子孫である[[藤原賢子]]が[[堀河天皇]]を生み、[[皇室]]を通して現代にも伝わっている([[百済王氏#系譜]]を参照)。白村江で敗れた豊璋を始め、高句麗へも有力者が逃れた事が『日本書紀』や『旧唐書』に残る{{Sfn|葛|2016|pp=60-64}}。豊璋は高句麗の滅亡後に唐に捕縛され、流刑に処されたと見られる{{Sfn|葛|2016|pp=60-64}}。最終的に唐へと渡った百済王族、貴族もいたことが[[西安]]や[[洛陽]]で発見された入唐百済人の墓によって明らかとなっている。百済王子[[扶余隆]]や、百済の武将[[黒歯常之]]、[[祢軍]]など6人の百済人とその子孫たちの墓が2016年現在、合わせて10か所発見されている{{Sfn|葛|2016|p=47}}。彼らは唐に仕え、3世代にわたりその動向が墓誌に残されていた{{Sfn|葛|2016|pp=60-64}}。
<!--== 民族 ==
民族については、高句麗と同じ[[扶余語族|扶余系民族]]の支配層(王族・臣・一部土民)と、新羅と同じ韓族の被支配層(土民中心)からなっていた<ref>[[関裕二]]『鬼の帝聖武天皇の謎』[[PHP研究所]]、[[2006年]]「百済王族は北方騎馬民族・扶余で、百済を少数民族で支配していた。したがって、百済出身といっても、王族でない者に、百済への帰属感は薄かったはずである。」</ref>とされている。