「エドゥアール・モルティエ」の版間の差分

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[[1805年]][[2月2日]]、レジオン・ドヌール・グラン・テグル勲位、[[ポルトガル]]のキリスト騎士団騎士勲位を授与した。同年[[8月30日]]、皇帝親衛隊歩兵部隊軍団長に任命された。
 
同年[[9月20日]]から始まった[[ウルム戦役]]では臨時統制軍である第8軍団を指揮した。ナポレオンは北方に向かって陽動作戦を行ったが、彼の部隊は余りにも進軍しすぎた為に他軍団から孤立してしまった。ロシアの[[ミハイル・クトゥーゾフ|クトゥーゾフ]]将軍はこれを見逃さず、テオドール・ガザン将軍率いる第2師団を巧みに誘引すると彼らを挟み撃ちにした。モルティエは急いで[[ピエール・デュポン (軍人)|ピエール・デュポン]]将軍率いる第1師団を派遣し、[[11月11日]]、デューレンシュタインの戦いが起こった。両軍は夜通し激しく衝突したが、モルティエとデュポンは何とかガザンの救援に成功した。味方は10,000人中、4,000人近く<ref>大半がガザン指揮下の兵士</ref>が死傷したが、敵軍も24,000人中4,000人近くが死傷し、フランス軍の辛勝に終わった。<ref>損害が大きかった為、[[12月2日]]に起こった[[アウステルリッツの戦い]]には参戦出来なかった。</ref>
 
[[1806年]]に[[第四次対仏大同盟]]が結成されると、モルティエは再び第8軍団の軍団長に任命された。[[10月16日]]、[[ルイ・ボナパルト]]率いるオランダ軍と共に[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン選帝侯国]]に進駐し、同国を占領した。ヘッセンは[[ヴェストファーレン王国]]に組み込まれた。その後、[[11月22日]]に[[ハーメルン]]に侵攻し、同地を占領した。この際に10,000名ものプロイセン兵を降伏させた。さらに[[11月29日]]に[[ニーンブルク/ヴェーザー]]を占領し、2,911人のプロイセン兵を捕獲した。その後、[[ハンブルク]]、[[ブレーメン]]と続けざまに侵攻、占領した。さらに[[アンクラム]]、[[フリートラントの戦い|フリートラント]]で戦い、[[コルベルク]]を包囲した。