「二式単座戦闘機」の版間の差分

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== 実戦 ==
[[File:Wagner Book (16310751266).jpg|thumb|right|200px|飛行第85戦隊の二式戦二型甲(キ44-II甲)]]
最初の二式戦の実戦部隊は上述の通り、増加試作機を主に装備した独立飛行47中隊(愛称は[[カワセミ|かわせみ]]部隊、[[新撰組]])。太平洋戦争緒戦の南方作戦に従軍し、[[インドシナ]]、[[マレー]]、[[ビルマ]]と転戦したが、補助タンクを装備しても航続距離が短く敵地深くへの侵攻ができなかった。そのため、方面に投入され数々の戦果を挙げ南方制圧に貢献した[[飛行第64戦隊]]・[[飛行第59戦隊]]の一式戦(隼)にくらべて華々しい活躍戦闘の機会に恵まれず、あまり目立った活躍ができなかった。1942年5月には内地に呼び戻され、のちに[[飛行戦隊]](飛行第47戦隊)に増強改編された。なお、独飛47中隊が内地に呼び戻された理由は九七戦では[[ドーリットル空襲]]を阻止できず、本土の防空力強化の為の移動<ref>大木主計編集・丸メカニック 二式単戦「鍾馗」・潮書房 1084年・29頁</ref>とされている。あくまで二式戦は対戦闘機戦にも対大型機戦にも両用し、侵攻作戦にも積極的に用いる汎用的な戦闘機として開発されているが(この点で海軍の局地戦闘機中の乙戦とは運用思想が明確に異なる)、このことが起因となり日本初の邀撃戦闘機ともなった。
 
1942年12月には性能向上した二型(キ44-II)が量産に入り、1943年に入ってから少数の部隊が二式戦に機種改変、主に[[日中戦争|中国戦線]]に投入され、中でも[[飛行第85戦隊]]の[[若松幸禧]]大尉は「赤鼻のエース」として名を上げた。