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=== 清代の評価 ===
[[清]]代に入ると、清朝にとっての先祖が建国した金と和議を結んだ秦檜を、肯定的に評価する事例も幾つか見受けられる。
* 宋と金とは仇敵であるから、筋道からは講和すべきではない。そのため、紹興年間の君臣は和議を押し通したことで後世から謗り辱められている。(略)当時は良将が多く、宋は頻繁に軍を動かしていた。秦檜の和議の意図は、民の負担軽減だと私は思う。時勢からすれば、失策とまでは言えない([[銭大キン|銭大昕]]による評価)<ref>『[[十駕斎養新録]]』巻八「宋季恥議和」。<!--原文とは文章も原義も大きく異なる酷い意訳の為日本語訳を訂正、日本語訳は衣川1973より。--></ref>。
* 道理論(義理の説)と現実論(時勢の論)は往々にして合致せず、全ての事柄を道理によって行うことは出来ない。思うに道理も現実を直視せねばならず、それが真の道理(真義理)である。二帝が捕虜となり、[[中原]]を失った、復仇し恥を雪ごうとを思い続けるのは道理である。しかし、敗れ続け疲弊している。(略)長躯北伐して皇帝を帰還させることが不可能なのは小さな子供でも知っている。故に、秦檜が用いられる前にも和議を図る識者はいたのだ([[趙翼]]による評価)<!--出典中にそれらしき文言は見当たらない  終始、和議によるのであり、和議でなければ亡んでしまう。(略)いたずらに、和議を恥辱と考え、みだりにこれを非難するのは、まことに義理というものを知ってはいるが。現実の時勢を知らないものである。言っていることは正しいけれども、その内容は実行できないのである。--><ref>『[[二十二史箚記]]』巻二六「和議」。<!--原文とは文章も原義も大きく異なる酷い意訳の為日本語訳を訂正、日本語訳は衣川1973より。--></ref>。