「大正天皇実録」の版間の差分
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== 概要 ==
編纂作業は1927年(昭和2年
大正天皇実録は大正天皇の事跡を[[皇室]]のために後世に残すことが目的であったため{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}、1937年の完成後半世紀以上にわたって非公開であったが、2001年の[[情報公開法]]施行後に一部黒塗りの上で2002年から2011年にわたって4回に分けて初めて公開され(後述の[[大正天皇実録#黒塗り公開の経緯|黒塗り公開の経緯]]を参照)、2015年にも黒塗り部分の範囲を減らして再び公開されている{{R|大正天皇実録 ゆまに書房}}<ref>{{Cite web|title=黒塗りせず「昭和天皇実録」公刊へ…宮内庁方針|publisher=[[読売新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140102191808/http://www.yomiuri.co.jp/feature/20120905-144176/news/20140101-OYT1T00225.htm|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/20120905-144176/news/20140101-OYT1T00225.htm|archivedate=2014年1月2日|deadlinkdate=2014年1月1日|accessdate=2020-04-09}}</ref>。
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このような状況から再び延長の動きが出てくることになり、1934年6月4日付けの「大正天皇実録補訂職員増置ノ件審議経過」によると、1934年5月18日と23日に次官室において官房秘書課、図書寮、[[内蔵寮#近代の内蔵寮|内蔵寮]]、[[参事官]]の諸官による会議が開かれ、23日の会議で「大正天皇実録補訂見込書」(同年5月23日付け)が図書寮から[[浅田恵一]]参事官へ提出された{{sfn|堀口修|2010a|p=8}}。見込書によると、短期間に編集を行い、かつ担当者の異動により編集方法に統一を欠いたため内容に精疎がある{{sfn|堀口修|2010a|p=8}}。その原因は、「年支ノ短小」かつ崩御後間もないため「時期尚早ノ観」があり、資料の調査が困難だったものが多かったからである{{sfn|堀口修|2010a|p=8}}。これらに関し「整備補填」は必要であり、そのため編集期間を5年延長し、その間に1.「既成実録ニ漏レタル重要資料ノ補填目録」に記載の資料、2.「天皇ノ宮務大権ニ関スル方面ニ於テ補填スヘキ資料」、3.「天皇ノ国務大権ニ因ル方面ノ補填スヘキ資料」、4.「明治天皇紀260巻及び資料稿本1,700冊」の各種補填資料の収集を行うとしている{{sfn|堀口修|2010a|pp=8-9}}<ref group="注釈">「国務大権」と「宮務大権」という言葉は、[[酒巻芳男]]宮内官(1918年入省)が唱えた用語と関連している可能性が指摘され、国家統治法を「国家法([[憲法]])」と「皇室法([[皇室典範]])」の2つで考えると「国家法(憲法)」のみが国家の法と取られかねないため、両者ともに国家の法という考えのもと「国家法(憲法)」を「国務法」、「皇室法(皇室典範)」を「宮務法」とした。</ref>{{sfn|堀口修|2010a|p=17}}。見込書の末尾には、補填すべき未調査資料はなお多く、宮内関係の未調査の根幹的資料は700冊に上り、内閣各庁文書は推定4,000冊を超え、末端の資料も含めるとさらに数が増えるとしており、期限を5年延長したとしてもなお実録の完成に対して厳しい認識を示している{{sfn|堀口修|2010a|p=9}}。
しかし、1934年5月30日に行われた会議では期限の5年延長は認められず3年延長に改められたため、3年で編集を終える場合の必要人員や編集体制などを想定した「三ケ年延長結了改正予定」という文書を作り、2案をこの中で示している{{sfn|堀口修|2010a|p=10}}{{sfn|堀口修|2010b|p=10}}。第一案は「五ケ年延長ト同一ナル完成ヲ為サシムル場合」で、5年延長の場合に必要な人員は、編集官2人、編集官補4人、雇員4人となり、これを3年で完了させる場合、編纂初期における御用掛1人と嘱託2人が4年間で謄写した資料が約850冊という実績値を考えると、編集官2人、編集官補6人、雇員8人が必要となる{{sfn|堀口修|2010a|p=10}}。第二案は「五ケ年延長ト同一人員ヲ以テ三ケ年ニ完成セシムル場合」で、編集期間が短くなっても人員が変わらないため、編集者の裁量により内容の取捨選択を図り完成を目指すとしている{{sfn|堀口修|2010a|p=10}}。
この「三ケ年延長結了改正予定」の内容を詳述した、「大正天皇実録三ケ年昭和九年七月以降 完成計画案」(1934年5月31日付け)が作られ、同年6月4日の会議でこの完成計画案も含め検討され、以下のことが決まった{{sfn|堀口修|2010a|pp=10-11}}。現在進行中の大正天皇実録編集事業(1927年7月から1935年6月にかけての8年計画)を1934年12月に繰り上げて完成させ、これを第一次稿本と呼称する{{sfn|堀口修|2010a|p=11}}。大正天皇実録補訂部を設け<ref group="注釈">「皇室令録」(昭和九年・第五号「図書寮ニ臨時職員増置ノ件附属書類」)中にある「大正天皇実録補訂部ヲ特設スルヤ否ノ件」によると、1934年12月4日に必要ないと決まったため設置されていない。</ref>{{sfn|堀口修|2010a|p=18}}{{sfn|堀口修|2010b|pp=11-12}}、1934年7月に判任扱嘱託2人、雇員扱嘱託4人臨時職員を増置し、第一次稿本の補訂を1937年6月までの3年間で完成させるが、資料収集は省内資料を中心に行い、省外資料はできるだけにとどめ、[[宮廷]]・[[外交]]・[[軍事]]等の秘録類の収集は他日に行う{{sfn|堀口修|2010a|p=11}}{{sfn|堀口修|2010a|p=18}}。1934年12月中に単行皇室令公布により編集官(奏任)2人、編集官補(判任)4人を増置し、既存の実録編集にあたっている御用掛(奏任待遇)1人、判任扱嘱託2人、先述の第一次稿本の補訂にあたる判任扱嘱託2人を臨時官制公布により増置分の各本官に振り替え充当する{{sfn|堀口修|2010a|p=11}}。
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その後、1935年中の編修の進展を受け、残りの1902年(明治35年)から1927年(昭和2年)までの約45冊の実録補訂を1936年中に終わらせたのち天皇に奉呈し乙夜の清覧に供し、後日に整理した補訂資料による修訂を行うとしている{{sfn|堀口修|2010b|p=7}}。この一連の変更のため、年表・索引等の調製と収集した増補資料の整備を1937年に先送りし、収集済みの資料で実録補訂の完成を1936年中に繰り上げる旨の稟請書「大正天皇実録編集ニ関スル件」が図書寮から湯浅倉平宮内大臣に出され1936年2月22日付けで決裁されている{{sfn|堀口修|2010b|p=7}}。
そして、紆余曲折を経つつも1936年末に大正天皇実録は完成した{{sfn|堀口修|2010b|p=7}}。1936年12月21日付けの「大正天皇実録完成ニ付報告案」が渡部信図書頭から[[松平恒雄]]宮内大臣に出され、「大正天皇御事蹟八十五冊、今般一応完成」などとしている{{sfn|堀口修|2010b|p=7}}。この報告案に添付されていた別紙「大正天皇実録編集概要」(1936年12月付け)によると、この時点で実録本文は85冊5,086ページとなっており、編纂について「謹ミテ按ズルニ、天皇ノ御治世ハ十有五年ニ過ギザレドモ、東宮御時代ハ二十余年ノ長キニ亘リ、其ノ間地方行啓ノ如キモ殆ンド全国ニ普ク、遠ク朝鮮ニモ及ビ、御降誕ヨリ合セテ四十八年間ノ御事歴ヲ叙セザルベカラザルヲ以テ、御実録ノ謹修ハ必シモ容易ナラズ。」として編纂の困難さを強調しつつ、内容に関しては「時ヲ経ルコト余リニ近キガ為メ機密ニ属スル史料ノ蒐集甚ダ困難ニシテ、結局省内史料ノ遺漏ナキヲ期シ、御日常ノ御起居ヲ主トシ、宮務ニ関スル御治績ノ一斑ヲ叙述スルニ限定セザルヲ得ザルニ至レリ。加之本年ハ十年御式年祭ニ相当スルヲ以テ、本実録ノ完成ヲ更ニ促進セシメ(以下略)」「政治外交軍事等ノ事苟モ機密ニ亘ルモノハ之ヲ他日ノ大成ニ待ツノ止ムヲ得ザリシコトハ恐懼措ク能ハザル所ナリトス。」としており、一部の資料不足から全てを網羅しているわけではなく、大正天皇十年御式年祭に併せるため完成を急ぐなど、不十分さを訴えつつも消化不良のまま編集を終えている{{sfn|堀口修|2010b|pp=7-8}}。大正天皇実録は図書寮編集課の一部署で編纂されたため少人数体制で、それに加え資料収集の困難さに直面したのに対し、人員・予算・資料に恵まれ、臨時帝室編集局という独立した組織で作られた明治天皇紀とは対照的となっている{{sfn|堀口修|2010b|pp=8-11}}<ref group="注釈">このことは当時から認識されており、渡部信図書頭が湯浅倉平宮内大臣に提出した1934年6月18日付けの人員増置の件に関する稟議書の前の段階で作成されたと考えられる文書(表題等全て無記入)には「明治天皇紀カ堂々タル官制ニ拠リ前後約二十年ノ歳月ヲ費ヤシタルニ比スルトキハ、本件編集事業カ組織ニ於テ遙カ貧弱過キルモノアルハ、本件事業ノ直接動機ヲ旧側近奉仕ノ御用掛任命ニ求メタルカ禍根ヲ為シタルモノニ有之。又編集物体裁ノ粗漏多キハ、大正天皇実録編集事業ノ挙カ明確ナル一般認識ヲ缺ケルコトニ相当原因スル所アルヲ痛感スル次第ニ御座候」とあり、明治天皇紀との比較は編纂時から意識されており、編纂事業の遅滞の原因については厳しい認識を示している。
</ref>{{sfn|堀口修|2010a|p=18}}。
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