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日本では、古くから各地で[[五穀]]の収穫を祝う風習があった。また、宮中祭祀の中で最も重要な祭事として古代から行われてきた。[[記紀神話]]においては[[天照大神]]が大嘗(『古事記』)或いは新嘗(『日本書紀』)の為に用意した新宮にスサノオが[[アマテラスとスサノオの誓約|誓約]]の後で糞を撒き散らす記述がある。しかし、これは神話であり、宮中祭祀としていつ頃に始まったか、また、原型がどのようであったかは不明である。新嘗に関する記録の中で最初のものは、[[神武天皇]]即位前紀の次の記述である。<br>
 
{{quotation|乃ち{{Ruby|丹生|にふ}}の川上の{{Ruby|五百箇|いほつ}}の{{Ruby|真|ま}}{{Ruby|坂|さか}}{{Ruby|樹|き}}を{{Ruby|抜取|ねこじ}}にして、{{Ruby|諸神|もろかみたち}}を{{Ruby|祭|いは}}ひたまふ。此より始めて{{Ruby|厳瓮|いつへ}}の{{Ruby|置|おきもの}}あり。時に{{Ruby|道|みちの}}{{Ruby|臣|おみの}}{{Ruby|命|みこと}}に{{Ruby|勅|みことのり}}すらく、「今{{Ruby|高|たか}}{{Ruby|皇産霊|みむすびの}}{{Ruby|尊|みこと}}を以て朕{{Ruby|親|みずか}}ら{{Ruby|顕斎|いはひのうし}}を{{Ruby|作|な}}さむ。汝を{{Ruby|用|もちひ}}て{{Ruby|斎主|いはひのうし}}として、授くるに{{Ruby|厳媛|いつひめ}}の号を以てせむ。其の置ける{{Ruby|埴|はに}}{{Ruby|瓮|へ}}を{{Ruby|名|なづ}}けて{{Ruby|厳|いつ}}{{Ruby|瓮|へ}}とす。又、火の名をば{{Ruby|厳|いつの}}{{Ruby|香|か}}{{Ruby|来|く}}{{Ruby|雷|つち}}とす。水の名をば{{Ruby|厳|いつの}}{{Ruby|罔象|みつは}}{{Ruby|女|のめ}}とす。{{Ruby|粮|おしもの}}の名をば{{Ruby|厳|いつの}}{{Ruby|稲魂|うか}}{{Ruby|女|のめ}}とす。{{Ruby|薪|たきぎ}}の名をば{{Ruby|厳|いつの}}{{Ruby|山雷|やまつち}}とす。草の名をば{{Ruby|厳|いつの}}{{Ruby|野椎|のづち}}とす」とのたまふ。冬十月の癸巳の{{Ruby|朔|ついたち}}、天皇、其の{{Ruby|厳|いつ}}{{Ruby|瓮|へ}}の{{Ruby|粮|おしもの}}を<{{big>|'''{{Ruby|嘗|にひなへ}}'''</big>}}したまひて、兵を{{Ruby|勒|ととの}}へて出で、先づ{{Ruby|八十|やそ}}{{Ruby|梟帥|たける}}を{{Ruby|国|くに}}{{Ruby|見|みの}}{{Ruby|丘|おか}}に撃ちて、{{Ruby|破|やぶ}}り{{Ruby|斬|き}}りつ{{efn|[[肥後和男]]は、この物語は新嘗の歴史にとってきわめて重要な伝承で、清浄にして神聖な材料を供物に用いることや、旧暦の十月一日が新穀のできる時期であることから新嘗にふさわしい時期であることなど、古代における新嘗祭のやりかたを伝えている、と述べた。肥後和男『新嘗の研究』第二輯 吉川弘文館、1955年、p.12~13。また、真弓常忠はこの記述について「少なくとも大嘗祭の現像を伺う資とすることができる」と述べ、また、ここでは天照大神の御名は見えず、天皇は高皇産霊尊を祀っていることを指摘し、天照大神という人格神が形成される以前の段階を現わしているという説を述べている。{{Sfn|真弓|pp=144}}}}。}}
 
"'''新嘗'''"の語を用いた記録の中で最も古いものは『[[日本書紀]]』[[仁徳天皇]]40年条に
{{quotation|卌年 (中略)是歲、當<{{big>|'''新嘗'''</big>}}之月、以宴會日、賜酒於內外命婦等|『日本書紀』巻第十一 大鷦鷯天皇}}
とある<ref>神代(記紀神話)を除く。</ref>。新嘗祭の儀式の中に弥生時代に起源を持つと考えられるものがあるため、その原型は弥生時代に遡る<ref name="工藤">工藤隆『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』</ref>という説もある。