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*[[小沢一郎]]
 
[[1972年]][[5月9日]]、佐藤派の派内派として発足{{Sfn|伊藤|1982|p=78}}</ref><ref>{{cite web |url= http://27.121.6.57/KUSUDA/kaidai.html | title= 楠田實資料(佐藤栄作官邸文書):解題 | publisher= ジャパン デジタル アーカイブズ センター |date= | accessdate = 2020-8-2 }}</ref>。その後佐藤派から独立し、同年[[7月7日]]、田中が[[内閣総理大臣]]に就任したことから、「'''七日会'''」として正式に田中派が旗揚げされ、西村が会長に就任した。旗揚げ時は佐藤派102名のうち、[[衆議院]]から40名、[[参議院]]から41名が参加し、合計81名の大派閥であった。
[[1972年]][[5月9日]]、佐藤派の派内派として発足<ref>{{Cite book|和書
|author = [[伊藤昌哉]]
|year = 1982-8-30
|title = 自民党戦国史―権力の研究
|publisher = [[朝日ソノラマ]]
|page = 78
}}</ref><ref>{{cite web |url= http://27.121.6.57/KUSUDA/kaidai.html | title= 楠田實資料(佐藤栄作官邸文書):解題 | publisher= ジャパン デジタル アーカイブズ センター |date= | accessdate = 2020-8-2 }}</ref>。その後佐藤派から独立し、同年[[7月7日]]、田中が[[内閣総理大臣]]に就任したことから、「'''七日会'''」として正式に田中派が旗揚げされ、西村が会長に就任した。旗揚げ時は佐藤派102名のうち、[[衆議院]]から40名、[[参議院]]から41名が参加し、合計81名の大派閥であった。
 
派閥の特色としては、田中が首相在任中に[[日中国交正常化]]を成し遂げたこともあり、[[台湾]]([[中華民国]])とは距離を置く[[親中派]]が多かった。また、[[道路]]や[[郵政]]などの[[公共事業]]による集金、集票力のある利権と深い関係を持つ[[族議員]]が圧倒的に多かった。また、議員数の増加によって自民党内の全ての[[政策部会]]に族議員化した田中派所属議員を抱えるようになると、[[地方公共団体|地方自治体]]の首長などから「田中派に所属すれば地元からのあらゆる[[陳情]]を派内で処理して貰える」という暗黙の了解が形成されるようになり、[[第2次田中角栄内閣 (第2次改造)|田中内閣]]崩壊後も求心力を維持し続ける効果を齎した。田中は自らの派閥を[[総合病院]]と評した。
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大平、[[鈴木善幸]]、[[中曽根康弘]][[政権]]樹立の大きな原動力となり、総理・[[自由民主党総裁|総裁]]を目指すには、田中派の協力なしでは不可能と言われていた。しかし、この頃から派内で「他派の候補ばかりを担いで自派から総理・総裁を出さないのは士気が下がる」との声が漏れるようになった。田中は、自身の影響力低下を恐れ、また将来の復権を考えていたため、田中派内から自分に取って代わる人間、つまりは[[竹下登]]の総裁選出馬を許さないと考えていたと言われる。しかし、田中の意を体して竹下を抑えつける立場であった[[二階堂進]]会長自身が党内の反中曽根派の使嗾に乗って総裁選出馬の意欲を一時示す([[二階堂擁立構想]])など、自前の総裁候補を出そうという機運が派内に充満した。
 
[[1985年]]2月7日、竹下を擁立頭とする派中派の「[[創政会]]」が、[[金丸信]]、[[橋本龍太郎]]、[[小沢一郎]]、[[梶山静六]]らによって結成された<ref name="nikkei20110828">{{cite news |author= 安藤俊裕 |url= https://www.nikkei.com/news/print-article/%3FR_FLG%3D0%26bf%3D0%26ng%3DDGXNASFK1902K_V20C11A8000000%26uah%3DDF270720112232 | title= 田中角栄に反旗、竹下派旗揚げ 「政界のドン」金丸信(5) | newspaper= 日本経済新聞 | date= 2011-8-28 | accessdate = 2020-8-2 }}</ref>。当初は勉強会だという表向きの説明を信じて容認していた田中は派中派と知るや憤慨して激しくこれを抑えつけたが、直後にやみくもな飲酒がたたり{{Sfn|立花|2005|pp=88-91}}{{Sfn|佐藤|2001|p=219}}、同年2月27日、[[脳梗塞]]で倒れた。
 
[[1987年]]7月4日、木曜クラブから113人が参加して、[[平成研究会|経世会]]の結成大会が行われた。二階堂系だった田村グループや、創政会結成を痛烈に批判し派内の一本化を目指していた[[奥田敬和]]らも経世会の旗揚げに参加した。ここに至り、当時141人の議員を有していた田中派は、(1)竹下派、(2)木曜クラブ(二階堂グループ)、(3)中立系の3つのグループに分かれることとなった。
田中が一線から退いたことで、派内抗争が激化する。二階堂は、[[江崎真澄]]、[[田村元]]、[[小坂徳三郎]]らを擁し、木曜クラブ会長であることを盾に、自身が田中派の総裁候補であると発言、総裁選出馬を臭わせると、創政会グループがこれに猛反対し、さらには創政会結成を痛烈に批判し派内の一本化を目指す[[奥田敬和]]らの中立グループが形成されるなど、木曜クラブは完全に分裂した。
 
同年9月1日、『国会便覧』第76版が発行される。この時点における3派の所属議員は以下のとおり<ref>{{Cite book |和書
[[1987年]]7月、木曜クラブから120名が参加して、[[平成研究会|竹下派(経世会)]]結成大会が行われた。二階堂系だった田村グループや、奥田ら中立組も竹下派に参加し、木曜クラブは完全に衰退。大派閥としての地盤は竹下-金丸ラインの経世会に引き継がれていった。
|author =
|title = 国会便覧 昭和62年8月新版
|edition = 第76版
|date = 1987年9月1日
|publisher = 日本政経新聞社
|page = 78333-336
}}</ref>{{Sfn|立花|2005|p=86}}。
 
{| class="wikitable"
! 派閥 !! 議員数 !! 議員名
|-
| 竹下派 || align="right" | 114 || (省略)
|-
| 木曜クラブ || align="right" | 15 || [[江崎真澄]]、[[久野忠治]]、[[二階堂進]]、[[松野幸泰]]、[[山下元利]]、[[稲村利幸]]、[[小坂徳三郎]]、[[田村良平]]、<br />[[林義郎]]、[[有馬元治]]、[[保岡興治]]、[[田中直紀]]、[[井上吉夫]]、[[川原新次郎]]、[[吉川芳男]]
|-
| 中立系 || align="right" | 12 || [[小沢辰男]]、[[渡辺紘三]]、[[後藤田正晴]]、[[戸井田三郎]]、[[木村睦男]]、[[大鷹淑子]]、[[河本嘉久蔵]]、[[世耕政隆]]、<br />[[長谷川信]]、[[森下泰]]、[[浦田勝]]、[[海江田鶴造]]
|}
 
木曜クラブに残留した二階堂会長、江崎、小坂、[[山下元利]]らは以降二階堂グループと呼ばれ、引き続き独立勢力を維持したが、少人数で閣僚ポストの獲得もままならず、政界への影響力は低下した。このとき、[[小沢辰男]]や[[後藤田正晴]]など竹下・二階堂どちらにも与しなかった議員もいた。[[1990年]]の総選挙で田中角栄、小坂、[[久野忠治]]が政界を引退し(ただし、久野は1回落選している)、[[保岡興治]]、田中の女婿である[[田中直紀]]が落選。大量に所属メンバーを減らしたことで、同年2月木曜クラブは解散を表明し、田中政治の終焉を告げた。
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== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author = [[伊藤昌哉]]
|year = 1982-8-30
|title = 自民党戦国史―権力の研究
|publisher = [[朝日ソノラマ]]
|isbn = 978-4257031635
|ref = {{SfnRef|伊藤|1982}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[立花隆]]
|year = 2005-8-10
|title = 政治と情念
|publisher = [[文春文庫]]
|isbn = 978-4167330187
|ref = {{SfnRef|立花|2005}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[佐藤昭子]]
|year = 2001-3-1
|title = 決定版 私の田中角栄日記
|publisher = [[新潮文庫]]
|isbn = 978-4101486314
|ref = {{SfnRef|佐藤|2001}}
}}
 
== 関連項目 ==
* [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]
* [[金竹小]]
* [[創政会]]