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== 概要 ==
編纂作業は1927年(昭和2年)7月から5年計画で始まり{{sfn|堀口修|2010a|p=5}}{{sfn|堀口修|2010b|p=10}}、恒常的な人員不足と資料収集が難航したため1931年に完成予定を3年延長し1935年に{{sfn|堀口修|2010b|p=10}}{{R|大正天皇実録 ゆまに書房}}、1934年には更に完成予定を3年延長し1937年に変更された{{sfn|堀口修|2010b|p=10}}{{R|大正天皇実録 ゆまに書房}}。最終的に2度計約5年半の延長を経て、「[[大正天皇祭|大正天皇十年御式年祭]]」(同年12月25日)に併わせて実録本文85冊を完成させ1936年(昭和11年)12月23日に[[天皇]]([[昭和天皇]])、[[皇后]]([[香淳皇后]])、[[皇太后]]([[貞明皇后]])に捧呈されている{{R|大正天皇実録 ゆまに書房}}{{sfn|季武嘉也|2005|p=98}}{{sfn|宮内庁|2016|p=254}}。その後、1937年12月に年表2冊、索引7冊、実録資料稿本218冊66,897ページ{{sfn|堀口修|2010b|p=9}}の編修を終え{{sfn|宮内庁|2016|p=254}}{{R|大正天皇実録 ゆまに書房}}、同年に正誤表1冊も作成され<ref name="宮内庁 大正天皇実録正誤表">{{Cite web|url=https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho/Detail/4000600950000?searchIndex=95|title=大正天皇実録正誤表昭和12年 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム|publisher=宮内庁|date=2020-07-01|accessdate=2020-07-09}}</ref>実録が完成{{R|大正天皇実録 毎日 20020329}}{{R|大正天皇実録 朝日 011213 webarchive}}{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}、同年12月27日に年表2冊、索引7冊が皇室に奉呈されている{{sfn|宮内庁|2016|p=254}}。1938年に編修事業は完了した{{R|大正天皇実録 ゆまに書房}}。大正天皇実録は、本文85冊・計5,098ページ<ref name="日経 大正天皇実録 20110325">{{Cite web|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG25015_V20C11A3CR0000/|title=大正天皇実録、4回目の公開 全85巻出そろう|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2011-03-25|accessdate=2020-04-06}}</ref><ref name="大正天皇実録 毎日 20020329">{{Cite web|title=<大正天皇>実録の一部を29日に公開 宮内庁|publisher=[[毎日新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20020402061126/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020329-00000114-mai-soci|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020329-00000114-mai-soci|archivedate=2002年4月2日|deadlinkdate=2002年3月29日|accessdate=2020-04-16}}</ref>、年表2冊(上下各1冊、515ページ{{sfn|堀口修|2010b|p=9}})<ref>{{Cite web|url=https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho/Detail/4000600860000?searchIndex=86|title=大正天皇実録年表上昭和12年 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム|publisher=宮内庁|date=2020-07-01|accessdate=2020-07-06}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho/Detail/4000600870000?searchIndex=87|title=大正天皇実録年表下昭和12年 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム|publisher=宮内庁|date=2020-07-01|accessdate=2020-07-06}}</ref><ref {{Refnest|group="注釈">|年表は年表上が2冊、年表下が2冊の計4冊あるが、上下ともに重複して存在しているため実質的に2冊である。</ref><ref>{{Cite web|url=https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho/Detail/4000600960000?searchIndex=96|title=大正天皇実録年表上昭和12年 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム|publisher=宮内庁|date=2020-07-01|accessdate=2020-07-06}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho/Detail/4000600970000?searchIndex=97|title=大正天皇実録年表下昭和12年 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム|publisher=宮内庁|date=2020-07-01|accessdate=2020-07-06}}</ref>。}}、索引7冊825ページ{{sfn|堀口修|2010b|p=9}}、正誤表1冊の計95冊<ref>{{Cite web|title=若き大正天皇の姿生き生き 宮内庁で「実録」閲覧始まる|publisher=朝日新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111011192125/https://www.asahi.com/national/update/0325/TKY201103250132.html|url=https://www.asahi.com/national/update/0325/TKY201103250132.html|archivedate=2011年10月11日|deadlinkdate=2011年3月25日|accessdate=2020-07-06}}</ref>{{R|朝日新聞 20110326 朝刊23面 webarchive}}<ref {{Refnest|group="注釈">|先の年表2冊の注釈にある通り、年表の上下は重複して存在しており年表は計4冊とされていた。宮内庁も実録は全97冊としていたため、実録が公開された2002年当初は実録の構成を「本文85冊、年表4冊、索引7冊、正誤表1冊の計97冊」と報道されていた。しかし、実録の全冊が公開され全容が判明した2011年以降は年表の重複分を除いた「本文85冊、年表2冊、索引7冊、正誤表1冊の計95冊」と報道されており、本記事においても年表の重複分を除いた実質的な実録の構成である「本文85冊、年表2冊、索引7冊、正誤表1冊の計95冊」で表記するものとする。</ref>{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}{{R|朝日新聞 20020329 夕刊1面}}{{R|大正天皇実録 朝日 030328 webarchive}}{{R|大正天皇実録 産経 080604}}<ref>「大正天皇の病状を詳述」『朝日新聞』東京本社版2008年6月4日付夕刊、第4版、第14面。</ref><ref>「「御記憶力ハ御衰退アリ」大正天皇実録3度目公開」『読売新聞』東京本社版2008年6月4日付夕刊、第4版、第14面。</ref>{{R|朝日新聞 20080605 朝刊23面 webarchive}}}}・計6820ページ{{R|日経 大正天皇実録 20110325}}<ref name="日経新聞 20020329 朝刊42面">「「大正天皇実録」一部きょう公開 宮内庁、皇位継承から2年分 政治指導者の評価に注目」『日本経済新聞』東京本社版2002年3月29日付朝刊、第13版、第42面。</ref>からなっており、編年叙述体で編纂されている{{R|大正天皇実録 ゆまに書房}}{{sfn|宮内庁|2016|p=254}}{{sfn|堀口修|2010a|p=13}}。大正天皇実録の冊数、完成年などの詳細は2001年12月に初めて公表されている{{R|大正天皇実録 朝日 011213 webarchive}}。全巻(最終稿本<ref {{Refnest|group="注釈">|宮内公文書館で公開されているのは最終稿本で、これを印刷用原稿として完成本が作られ天皇に奉呈されたが、2016年(平成28年)12月現在、宮内公文書館は完成本を所蔵していない。</ref>{{sfn|宮内省図書寮・岩壁義光|2016|p=5}}。}})が[[皇居]]の[[宮内公文書館]]に所蔵されている{{R|大正天皇実録 NHK 20150627}}。
 
大正天皇実録は大正天皇の事跡を[[皇室]]のために後世に残すことが目的であったため{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}、1937年の完成後半世紀以上にわたって非公開であったが、2001年の[[情報公開法]]施行後に一部黒塗りの上で2002年から2011年にわたって4回に分けて初めて公開され(後述の[[大正天皇実録#黒塗り公開の経緯|黒塗り公開の経緯]]を参照)、2015年にも黒塗り部分の範囲を減らして再び公開されている{{R|大正天皇実録 ゆまに書房}}<ref>{{Cite web|title=黒塗りせず「昭和天皇実録」公刊へ…宮内庁方針|publisher=[[読売新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140102191808/http://www.yomiuri.co.jp/feature/20120905-144176/news/20140101-OYT1T00225.htm|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/20120905-144176/news/20140101-OYT1T00225.htm|archivedate=2014年1月2日|deadlinkdate=2014年1月1日|accessdate=2020-04-09}}</ref>。
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#文体は漢文直訳体を用い荘重典雅を失わないようにする。(第八条)
#凡例は随時部会で決める。(第九条)
#宮内大臣へ報告するため、編集主任は毎年1回功程報告書<ref {{Refnest|group="注釈">|「大正天皇実録編集事業功程」または「大正天皇実録部編集事業功程」と題する成績報告の公文書。年度表記される場合があるが、各年ごと1月から12月までが対象である。</ref>{{sfn|堀口修|2010a|pp=6-7}}{{sfn|堀口修|2010a|p=17}}}}を図書頭へ提出する。(第十条)
 
=== 編集期限の延長(1回目) ===
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この時点での進捗状況は、願書に添付された「大正天皇実録編集事業概要」によると、大方の資料収集を終え、謄写文書113冊、収集資料22,170枚、実録起草済12冊(大正元年 - 大正4年)で実録起草残見込数は217冊(大正元年以前152冊、大正5年から大喪まで65冊、起草済の12冊と合わせ計229冊)となっている{{sfn|堀口修|2010a|pp=5-6}}。その経過は、1927年7月から1930年12月まで資料収集にあて、1931年1月から収集資料の整理を行い、1931年12月に天皇の即位から大喪儀までの編年史料68冊の編修を終えている{{sfn|堀口修|2010a|p=13}}。
 
このため、編集課長補助として一般実録事務についていた[[三条西公正]]図書寮御用掛を実録起草の任に起用したうえで、編集期限を3年延長したいとしている{{sfn|堀口修|2010a|p=6}}。これにより、他に編纂が進行中の「天皇皇族実録」の完成時期と重なり、主任の編集課長の執務上都合がよく一層の成績が期待できるとしている{{sfn|堀口修|2010a|p=6}}。また、三条西を専任として起用するのは減員分を補填する以外に、本実録編纂の作業に精通していた梅田嘱託が1930年に死去し、嘉納嘱託が1931年に実録編集から外れたことに対処するためでもあったとしている{{sfn|堀口修|2010a|p=6}}<ref name="宮内省職員録 昭和六年七月一日現在 図書寮 p134-137">{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272991|title=宮内省職員録 昭和六年七月一日現在|publisher=宮内省宮内大臣官房秘書課、[[国立国会図書館]](デジタル化出版者)|page=134-137|date=1931|accessdate=2020-08-06}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272982|title=宮内省職員録 昭和十六年四月一日現在|publisher=宮内省宮内大臣官房秘書課、国立国会図書館(デジタル化出版者)|page=87|date=1941-07|accessdate=2020-08-07}}</ref><ref {{Refnest|group="注釈">|先の出典では「梅田嘱託が前年、嘉納嘱託が本年に逝去した」とあるが、嘉納履正が死去したのは1986年1月13日であり、2人の後任の宇宿捷と中根克が事務嘱託に着任後の昭和6年7月1日現在の宮内省職員録や、少なくとも昭和十六年四月一日現在の宮内省職員録まで嘉納履正の名があることから、同姓同名同漢字の別人が死去に併せて入れ替わりで入ったのでない限り誤りとみられる。</ref>{{R|宮内省職員録 昭和六年七月一日現在 図書寮 p134-137}}<ref>{{Cite web|url=https://www.judo.or.jp/shiru/rekishi|title=全日本柔道連盟50年誌 第四部資料編 日本柔道史年表|publisher=[[公益財団法人]][[全日本柔道連盟]]|accessdate=2020-08-03}}</ref>。}}。両嘱託の後任は[[宇宿捷]]と[[中根克]](その後、中根は[[杉本勲]]と交代している<ref>{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445656|title=宮内省職員録 昭和八年一月一日現在|publisher=宮内省宮内大臣官房秘書課、国立国会図書館(デジタル化出版者)|page=131|date=1933|accessdate=2020-07-30}}</ref>)が就いており<ref>{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272991|title=宮内省職員録 昭和六年七月一日現在|publisher=宮内省宮内大臣官房秘書課、国立国会図書館(デジタル化出版者)|page=137|date=1931|accessdate=2020-07-16}}</ref>{{sfn|堀口修|2010a|p=17}}、三条西は1931年10月から編纂作業に加わっている{{sfn|堀口修|2010a|p=13}}。
 
=== 編集期限の延長(2回目)と臨時官制公布 ===
前回の期限延長後、「大正天皇実録部編修事業功程」(図書頭から宮内大臣への年1回の事業報告書)などによると、1932年は順調に編集が進捗し同年4月から[[明治天皇紀]]と体裁を合わせるため、編纂済みの編年資料稿本をもとに叙述的編集に着手している{{sfn|堀口修|2010a|p=7}}{{sfn|堀口修|2010a|p=13}}。1933年の進捗状況は、誕生から幼年時代までの起草を3冊、皇太子時代の一部10冊と天皇時代の一部2冊の編修を終え、「予定期間内に本実録の完成脱稿を期す」としていたが、問題点も認識されていた{{sfn|堀口修|2010a|p=7}}。すなわち、少数の人員で短期間に完成させねばならないうえ、各種資料が山積し期間内に採録するのは難しく完璧を期すのは困難であり、期間内に形式上実録は一応完成するが、天皇の動静に関し微細さに欠け、躍如たらしむ内容に乏しいとしている{{sfn|堀口修|2010a|pp=7-8}}{{sfn|堀口修|2010a|p=13}}。
 
このような状況から再び延長の動きが出てくることになり、1934年6月4日付けの「大正天皇実録補訂職員増置ノ件審議経過」によると、1934年5月18日と23日に次官室において官房秘書課、図書寮、[[内蔵寮#近代の内蔵寮|内蔵寮]]、[[参事官]]の諸官による会議が開かれ、23日の会議で「大正天皇実録補訂見込書」(同年5月23日付け)が図書寮から[[浅田恵一]]参事官へ提出された{{sfn|堀口修|2010a|p=8}}。見込書によると、短期間に編集を行い、かつ担当者の異動により編集方法に統一を欠いたため内容に精疎がある{{sfn|堀口修|2010a|p=8}}。その原因は、「年支ノ短小」かつ崩御後間もないため「時期尚早ノ観」があり、資料の調査が困難だったものが多かったからである{{sfn|堀口修|2010a|p=8}}。これらに関し「整備補填」は必要であり、そのため編集期間を5年延長し、その間に1.「既成実録ニ漏レタル重要資料ノ補填目録」に記載の資料、2.「天皇ノ宮務大権ニ関スル方面ニ於テ補填スヘキ資料」、3.「天皇ノ国務大権ニ因ル方面ノ補填スヘキ資料」、4.「明治天皇紀260巻及び資料稿本1,700冊」の各種補填資料の収集を行うとしている{{sfn|堀口修|2010a|pp=8-9}}<ref {{Refnest|group="注釈">|「国務大権」と「宮務大権」という言葉は、[[酒巻芳男]]宮内官(1918年入省)が唱えた用語と関連している可能性が指摘され、国家統治法を「国家法([[憲法]])」と「皇室法([[皇室典範]])」の2つで考えると「国家法(憲法)」のみが国家の法と取られかねないため、両者ともに国家の法という考えのもと「国家法(憲法)」を「国務法」、「皇室法(皇室典範)」を「宮務法」とした。</ref>{{sfn|堀口修|2010a|p=17}}。}}。見込書の末尾には、補填すべき未調査資料はなお多く、宮内関係の未調査の根幹的資料は700冊に上り、内閣各庁文書は推定4,000冊を超え、末端の資料も含めるとさらに数が増えるとしており、期限を5年延長したとしてもなお実録の完成に対して厳しい認識を示している{{sfn|堀口修|2010a|p=9}}。
 
しかし、1934年5月30日に行われた会議では期限の5年延長は認められず3年延長に改められたため、3年で編集を終える場合の必要人員や編集体制などを想定した「三ケ年延長結了改正予定」という文書を作り、2案をこの中で示している{{sfn|堀口修|2010a|p=10}}{{sfn|堀口修|2010b|p=10}}。第一案は「五ケ年延長ト同一ナル完成ヲ為サシムル場合」で、5年延長の場合に必要な人員は、編集官2人、編集官補4人、雇員4人となり、これを3年で完了させる場合、編纂初期における御用掛1人と嘱託2人が4年間で謄写した資料が約850冊という実績値を考えると、編集官2人、編集官補6人、雇員8人が必要となる{{sfn|堀口修|2010a|p=10}}。第二案は「五ケ年延長ト同一人員ヲ以テ三ケ年ニ完成セシムル場合」で、編集期間が短くなっても人員が変わらないため、編集者の裁量により内容の取捨選択を図り完成を目指すとしている{{sfn|堀口修|2010a|p=10}}。
 
この「三ケ年延長結了改正予定」の内容を詳述した、「大正天皇実録三ケ年昭和九年七月以降 完成計画案」(1934年5月31日付け)が作られ、同年6月4日の会議でこの完成計画案も含め検討され、以下のことが決まった{{sfn|堀口修|2010a|pp=10-11}}。現在進行中の大正天皇実録編集事業(1927年7月から1935年6月にかけての8年計画)を1934年12月に繰り上げて完成させ、これを第一次稿本と呼称する{{sfn|堀口修|2010a|p=11}}。大正天皇実録補訂部を設け<ref {{Refnest|group="注釈">|「皇室令録」(昭和九年・第五号「図書寮ニ臨時職員増置ノ件附属書類」)中にある「大正天皇実録補訂部ヲ特設スルヤ否ノ件」によると、1934年12月4日に必要ないと決まったため設置されていない。</ref>{{sfn|堀口修|2010a|p=18}}{{sfn|堀口修|2010b|pp=11-12}}。}}、1934年7月に判任扱嘱託2人、雇員扱嘱託4人臨時職員を増置し、第一次稿本の補訂を1937年6月までの3年間で完成させるが、資料収集は省内資料を中心に行い、省外資料はできるだけにとどめ、[[宮廷]]・[[外交]]・[[軍事]]等の秘録類の収集は他日に行う{{sfn|堀口修|2010a|p=11}}{{sfn|堀口修|2010a|p=18}}。1934年12月中に単行皇室令公布により編集官(奏任)2人、編集官補(判任)4人を増置し、既存の実録編集にあたっている御用掛(奏任待遇)1人、判任扱嘱託2人、先述の第一次稿本の補訂にあたる判任扱嘱託2人を臨時官制公布により増置分の各本官に振り替え充当する{{sfn|堀口修|2010a|p=11}}。
 
その後、[[渡部信]]図書頭は[[湯浅倉平]]宮内大臣に、再度の編集体制の調整を図るべく、「大正天皇実録編集ニ関シ別途稟議案提出致候。右御承認ノ上ハ図書寮臨時職員増置ノ件皇室令ヲ以テ御制定相成度」との上申書(1934年6月18日付け)と、具体的な補訂作業の内容を記した「大正天皇実録補訂功程予定表」が添付された同日付けの人員増置の件に関する稟請書([[稟議書]])を提出し、同月30日に決裁を受けている{{sfn|堀口修|2010a|p=11}}<ref {{Refnest|group="注釈">|「大正天皇実録補訂功程予定表」には、大正天皇実録補訂事業の「昭和十年以降二箇年半ニ於ケル所要経費」の予算として総額41,368円が試算されている。</ref>{{sfn|堀口修|2010a|p=16}}。}}。これを受け、1934年7月から判任扱嘱託の[[尾形鶴吉]]、[[種子島時望]]<ref name="宮内省職員録 昭和十一年一月一日現在 図書寮">{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281944|title=宮内省職員録 昭和十一年一月一日現在|publisher=宮内省宮内大臣官房秘書課、国立国会図書館(デジタル化出版者)|page=136|date=1936|accessdate=2020-05-04}}</ref>(種ケ島時望<ref>{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272998|title=宮内省職員録 昭和十年一月一日現在|publisher=宮内省宮内大臣官房秘書課、国立国会図書館(デジタル化出版者)|page=134|date=1935|accessdate=2020-07-29}}</ref>)の2人と専属筆生として雇員扱嘱託4人が増員され実録編集に加わっている{{sfn|堀口修|2010b|pp=1-2}}。
 
これら増員の件については、1934年11月26日に行われた昭和10年度各会計予算が[[内奏]]された席上で、湯浅倉平宮内大臣より「大正天皇実録編集関係増員理由」が内奏されている{{sfn|堀口修|2010b|p=1}}。一連の動きの結果、1934年12月20日に大正天皇実録編集に係る臨時職員を増員する[[皇室令]]第五号が制定公布され、翌1935年1月から官制が布かれ、三条西公正、[[武田勝蔵]]の編集官2人、杉本勲、尾形鶴吉、[[浅野長夫]]、種子島時望(種ケ島時望)の編集官補4人、[[市来邦彦]](1937年に[[松本茂夫]]と交代している{{sfn|堀口修|2010b|p=12}}<ref>{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281946|title=宮内省職員録 昭和十二年一月一日現在|publisher=宮内省宮内大臣官房秘書課、国立国会図書館(デジタル化出版者)|page=115|date=1937|accessdate=2020-07-23}}</ref>)、[[基太村尚紀]]、[[寺山寿]]、[[藤田常道]]の雇員4人の計10人体制での本格的な実録編集が始まった{{sfn|堀口修|2010b|p=2}}{{sfn|堀口修|2010b|p=4}}{{sfn|堀口修|2010b|p=10}}{{sfn|季武嘉也|2005|p=98}}{{R|宮内省職員録 昭和十一年一月一日現在 図書寮}}。なお、落合為誠は1934年12月に依願退職している{{sfn|季武嘉也|2005|p=98}}{{sfn|堀口修|2010a|p=17}}。
 
=== 実録の完成 ===
1934年の進捗状況は、叙述体実録(第一次稿本)全64冊を同年11月中に完成させるなど、前述の通り編修期限の延長に伴う事業功程の変更、職員増員に伴う編集機構の変更などがあり、雑務が多かったにもかかわらず「概して予期以上の成果を収めた」としている{{sfn|堀口修|2010b|p=3}}。1935年の進捗状況は、同年から官制が公布され人員も増えて本格的な編集が始まり、前述の「大正天皇実録補訂功程予定表」に基づいて編集が行われ、同年5月2日と15日及び12月5日には元側近奉仕者からの談話聴取も行われた{{sfn|堀口修|2010b|pp=4-6}}<ref {{Refnest|group="注釈">|この年に談話聴取を行った相手は、1935年5月2日実施=[[東久世秀雄]][[男爵]]、[[大河内正敏]][[子爵]]、[[小出英延]]子爵、[[西郷従徳]][[侯爵]]、[[片桐貞央]]子爵、以上元側近奉仕者(明宮時代)。1935年5月15日実施=元侍従長[[徳川達孝]][[伯爵]](明宮時代)。1935年12月5日実施=元[[東宮侍従]][[高辻宣麿]]子爵、元東宮侍従・侍従[[甘露寺受長]]伯爵、元[[東宮武官]]・侍従・[[宮中顧問官]][[清水谷実英]]伯爵。</ref>{{sfn|堀口修|2010b|pp=5-6}}}}
 
史料稿本については、天皇在位期間15年分の68冊21,000枚が1932年12月に完成しており、明治時代分は前述の1934年11月26日に内奏された「大正天皇実録編集関係増員理由」によると、既存の編年史料である[[明宮記]]4冊(幼少期の誕生した1879年(明治12年)から1888年(明治21年)までを記したもの)と[[東宮記]]75冊(皇太子時代の1889年(明治22年)から1912年(明治45年)までを記したもの)の再精査によって史料稿本77冊約20,000枚を見込み、史料稿本は計145冊の約40,000枚を見込んでいる{{sfn|堀口修|2010b|p=1}}{{sfn|季武嘉也|2005|p=98}}{{sfn|堀口修|2010a|p=13}}。
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その後、1935年中の編修の進展を受け、残りの1902年(明治35年)から1927年(昭和2年)までの約45冊の実録補訂を1936年中に終わらせたのち天皇に奉呈し乙夜の清覧に供し、後日に整理した補訂資料による修訂を行うとしている{{sfn|堀口修|2010b|p=7}}。この一連の変更のため、年表・索引等の調製と収集した増補資料の整備を1937年に先送りし、収集済みの資料で実録補訂の完成を1936年中に繰り上げる旨の稟請書「大正天皇実録編集ニ関スル件」が図書寮から湯浅倉平宮内大臣に出され1936年2月22日付けで決裁されている{{sfn|堀口修|2010b|p=7}}。
 
そして、紆余曲折を経つつも1936年末に大正天皇実録は完成した{{sfn|堀口修|2010b|p=7}}。1936年12月21日付けの「大正天皇実録完成ニ付報告案」が渡部信図書頭から[[松平恒雄]]宮内大臣に出され、「大正天皇御事蹟八十五冊、今般一応完成」などとしている{{sfn|堀口修|2010b|p=7}}。この報告案に添付されていた別紙「大正天皇実録編集概要」(1936年12月付け)によると、この時点で実録本文は85冊5,086ページとなっており、実録の編纂について「謹ミテ按ズルニ、天皇ノ御治世ハ十有五年ニ過ギザレドモ、東宮御時代ハ二十余年ノ長キニ亘リ、其ノ間地方行啓ノ如キモ殆ンド全国ニ普ク、遠ク朝鮮ニモ及ビ、御降誕ヨリ合セテ四十八年間ノ御事歴ヲ叙セザルベカラザルヲ以テ、御実録ノ謹修ハ必シモ容易ナラズ。」として実録の編纂のさを強調しつつ、内容に関しては「時ヲ経ルコト余リニ近キガ為メ機密ニ属スル史料ノ蒐集甚ダ困難ニシテ、結局省内史料ノ遺漏ナキヲ期シ、御日常ノ御起居ヲ主トシ、宮務ニ関スル御治績ノ一斑ヲ叙述スルニ限定セザルヲ得ザルニ至レリ。加之本年ハ十年御式年祭ニ相当スルヲ以テ、本実録ノ完成ヲ更ニ促進セシメ(以下略)」「政治外交軍事等ノ事苟モ機密ニ亘ルモノハ之ヲ他日ノ大成ニ待ツノ止ムヲ得ザリシコトハ恐懼措ク能ハザル所ナリトス。」としており、一部の資料不足から全てを網羅しているわけではなく、大正天皇十年御式年祭に併せるため完成を急ぐなど、不十分さを訴えつつも消化不良のまま編集を終えている{{sfn|堀口修|2010b|pp=7-8}}。大正天皇実録は図書寮編集課の一部署で編纂されたため少人数体制で、それに加え資料収集の困難さに直面したのに対し、人員・予算・資料に恵まれ、臨時帝室編集局という独立した組織で作られた明治天皇紀とは対照的となっている{{sfn|堀口修|2010b|pp=8-11}}<ref {{Refnest|group="注釈">|このことは当時から認識されており、渡部信図書頭が湯浅倉平宮内大臣に提出した1934年6月18日付けの人員増置の件に関する稟議書の前の段階で作成されたと考えられる文書(表題等全て無記入)には「明治天皇紀カ堂々タル官制ニ拠リ前後約二十年ノ歳月ヲ費ヤシタルニ比スルトキハ、本件編集事業カ組織ニ於テ遙カ貧弱過キルモノアルハ、本件事業ノ直接動機ヲ旧側近奉仕ノ御用掛任命ニ求メタルカ禍根ヲ為シタルモノニ有之。又編集物体裁ノ粗漏多キハ、大正天皇実録編集事業ノ挙カ明確ナル一般認識ヲ缺ケルコトニ相当原因スル所アルヲ痛感スル次第ニ御座候」とあり、明治天皇紀との比較は編纂時から意識されており、編纂事業の遅滞の原因については厳しい認識を示している{{sfn|堀口修|2010a|p=18}}。}}
</ref>{{sfn|堀口修|2010a|p=18}}。
 
1936年12月22日に、完成した「大正天皇実録」本文85冊は「天皇皇族実録」の一部52冊と共に、渡部信図書頭から天皇(昭和天皇)、皇后(香淳皇后)の分が[[侍従長]]と[[皇后宮太夫]]へ提出され、皇太后(貞明皇后)の分が[[皇太后宮太夫]]へ提出されている{{sfn|堀口修|2010b|p=9}}<ref {{Refnest|group="注釈">|大正天皇実録はタイプライターで5部作製され、それぞれ1部ずつ天皇、皇后、皇太后、宮内大臣、図書寮に提出されている。</ref>{{sfn|堀口修|2010b|p=12}}。}}。天皇、皇后、皇太后へは翌12月23日に奉呈されている{{sfn|季武嘉也|2005|p=98}}{{sfn|宮内庁|2016|p=254}}。奉呈の際、式典が催された明治天皇紀と比べ、大正天皇実録では催されず側近に渡すのみで終わっている{{sfn|堀口修|2010b|p=9}}。
 
1937年中に行うとしていた年表・索引・実録資料稿本については、渡部信図書頭から松平恒雄宮内大臣へ提出された報告書(1937年12月24日付け)の別紙「大正天皇実録編集事業終了報告」(1937年12月付け)によると、それぞれ、年表上下2冊515ページ、索引7冊825ページ、実録資料稿本218冊66,897ページとして1937年12月に完成し、同年12月27日に年表2冊、索引7冊が皇室に奉呈されている{{sfn|堀口修|2010b|p=9}}{{sfn|宮内庁|2016|p=254}}。正誤表1冊も1937年に完成している{{R|宮内庁 大正天皇実録正誤表}}。実録資料稿本は当初の予定(前述の1934年11月の段階で見込んでいた、史料稿本計145冊約40,000枚のこと{{sfn|堀口修|2010b|p=1}})と比べ73冊25,897ページ増加したとしている{{sfn|堀口修|2010b|p=9}}。編集事業の終了にあたっては「概ネ所期ノ成績ヲ収メ、茲ニ本事業ノ終了ヲ報告スルヲ得ルニ至リシコトハ洵ニ光栄トスル所」としており、一定の内容に達したとの認識を示している{{sfn|堀口修|2010b|p=9}}。その後、1938年1月7日に出された皇室令第一号によって1934年に出された皇室令第五号が廃止され、これをもって官制も廃止となり編集事業が終了した{{sfn|堀口修|2010b|p=9}}{{R|大正天皇実録 ゆまに書房}}{{sfn|宮内省図書寮・岩壁義光|2016|p=2}}。「他日ノ大成ニ待ツ」としていた政治外交軍事等に関する内容の編修については、その機会が来ることはなく今に至っている{{sfn|堀口修|2010b|p=12}}。
 
なお、本実録の編纂が行われている間、明治天皇紀も宮内省内の臨時帝室編修局で編纂が行われており、明治天皇紀が完成する1933年(昭和8年)までの6年間、2つの天皇の伝記が同時並行で編纂されていたことになる{{sfn|季武嘉也|2005|pp=98-99}}。また、[[孝明天皇]]までの歴代天皇、皇族を扱った「天皇皇族実録」全300冊も宮内省図書寮で同時期に編纂されている{{sfn|季武嘉也|2005|pp=98-99}}{{sfn|宮内庁|2016|pp=254-255}}。
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== 黒塗り公開の経緯 ==
=== 実録の公開請求 ===
2001年4月1日に施行された[[行政機関の保有する情報の公開に関する法律|情報公開法]]に基づき、同年に[[朝日新聞社]]<ref group="注釈">朝日新聞社は新たな取材手法として情報公開法を利用することに決め、全国4本社の記者から計約1,000件の請求案を募り、法が施行されると同時に各省庁に一斉請求を行っている。なお、出典著者の中島昭夫はこのプロジェクトの事務局を務めている。</ref>{{sfn|中島昭夫|2005|pp=8-9}}が大正天皇実録の公開請求を行った{{R|朝日新聞 20150702 朝刊34面 webarchive}}{{R|朝日新聞 20110326 朝刊23面 webarchive}}{{R|朝日新聞 20080605 朝刊23面 webarchive}}{{R|大正天皇実録 ゆまに書房}}<ref name="大正天皇実録 朝日 011213 webarchive">{{Cite web|title=日々の行動など記した「大正天皇実録」公開へ 宮内庁|publisher=[[朝日新聞]]東京本社版2001年12月13日付夕刊、第4版、第1面。|archiveurl=https://web.archive.org/web/20011214013833/http://www.asahi.com/national/update/1213/018.html|url=http://www.asahi.com/national/update/1213/018.html|archivedate=2001年12月14日|deadlinkdate=2001年12月13日|accessdate=2020-04-16}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|朝日新聞社は新たな取材手法として情報公開法を利用することに決め、全国4本社の記者から計約1,000件の請求案を募り、法が施行されると同時に各省庁に一斉請求を行っている。なお、出典著者の中島昭夫はこのプロジェクトの事務局を務めている。{{sfn|中島昭夫|2005|pp=8-9}}}}。ところが、[[宮内庁]]は平成13年5月2日付け宮内秘発甲第295号により不開示決定(不存在)としてこれを拒否した{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}。朝日新聞社側はこれを不服として、宮内庁の決定の取り消しを求めて情報公開審査会に異議申し立てを行った{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}。宮内庁長官を諮問庁とし、事件名を「大正天皇実録の不開示決定(行政文書非該当)に関する件」(平成13年諮問第21号)として、2001年7月13日に情報公開審査会が諮問を受理し審査が行われた<ref name="内閣府 大正天皇実録 答申 011213">{{Cite web|title=大正天皇実録の不開示決定(行政文書非該当)に関する件(平成13年諮問第21号)|publisher=[[内閣府]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030313104322/http://www8.cao.go.jp/jyouhou/tousin/001-h13/072.pdf|url=http://www8.cao.go.jp/jyouhou/tousin/001-h13/072.pdf|archivedate=2003年3月13日|deadlinkdate=2001年12月13日|accessdate=2020-04-27}}</ref>。
 
朝日新聞社側は「大正天皇実録は情報公開法の適用対象外となる歴史的資料にあたらない」などと主張し{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}、宮内庁側は「適用対象外となる情報公開法施行令3条1項の4要件を全て満たしており歴史的資料に該当する」として情報公開法に基づく公開を拒否した{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}。<ref {{Refnest|group="注釈">|当時の情報公開法施行令3条1項の4要件は、「1.当該資料が専用の場所において適切に保存されていること。2.当該資料の目録が作成され、かつ、当該目録が一般の閲覧に供されていること。3.次に掲げるものを除き、一般の利用の制限が行われていないこと。イ~ハ(略)4.当該資料の利用の方法及び期間に関する定めが設けられ、かつ、当該定めが一般の閲覧に供されていること。」となっており、宮内庁はそれぞれ「1.書陵部の専用の書庫において適切に保存されていること、2.目録が作成され、かつ、当該目録は一般の閲覧に供されていること、3.施行令3条1項3号で定めるものを除き,一般の利用制限が行われていないこと、4.書陵部において利用規則が定められ、かつ、利用規則が一般の閲覧に供されていること」から全ての要件を満たしているとしている。</ref>{{R|総務省 歴史的資料 2004}}。}}
 
2001年12月13日に答申が出され(答申番号:平成13年度72、事件名:大正天皇実録の不開示決定(行政文書非該当)に関する件(平成13年諮問第21号)<ref>{{Cite web|url=http://www008.upp.so-net.ne.jp/h-sebata/images/fufukushinsa.pdf|title=『年報 日本現代史』第九号 象徴天皇制と現代史 (二〇〇四年三月)抜刷 情報公開法の不服審査 ――宮内庁に関する審査の実例――|publisher=現代史料出版、東出版|author=瀬畑源|page=156|date=2004年3月|accessdate=2020-04-27}}</ref><ref>{{Cite web|title=情報公開審査会 答申一覧 001~092|publisher=内閣府|archiveurl=https://web.archive.org/web/20020211193446/http://www8.cao.go.jp/jyouhou/tousin/001-h13/index001.html|url=http://www8.cao.go.jp/jyouhou/tousin/001-h13/index001.html|archivedate=2002年2月11日|deadlinkdate=2001年12月13日|accessdate=2020-04-27}}</ref>)、情報公開審査会は大正天皇実録を情報公開法第2条第2項に規定する行政文書に該当しない<ref name="総務省 歴史的資料 2004">{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/gyoukan/kanri/jyohokokai/pdf/041130_k_02.pdf|title=歴史的資料等(法第2条第2項)についての検討資料|publisher=[[総務省]]|page=5|date=2004|accessdate=2020-04-20}}</ref>{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}として宮内庁側の主張を認めている{{R|大正天皇実録 朝日 011213 webarchive}}{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}。
 
しかし、情報公開審査会が「歴史的資料」と認定{{R|大正天皇実録 毎日 20020329}}{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}、そして歴史的資料が法の適用対象外となるのは「原則として一般の利用に供する仕組みがあることが前提」であるとしたうえで{{R|総務省 歴史的資料 2004}}{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}、「利用制限事項<ref {{Refnest|group="注釈">|大正天皇の個人情報に該当するかどうか等{{R|総務省 歴史的資料 2004}}</ref>}}に係る精査をできる限り速やかに行い順次公開すべき」としたため{{R|総務省 歴史的資料 2004}}、2001年12月に[[宮内庁]]は書陵部の利用規則に基づいて、調査を終えた第1回分を2001年度末までに公開することを決めた{{R|大正天皇実録 ゆまに書房}}{{R|大正天皇実録 朝日 011213 webarchive}}{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}。また、この決定と同時に大正天皇実録が1937年に完成したことなどの詳細が公表されている{{R|大正天皇実録 朝日 011213 webarchive}}{{R|内閣府 大正天皇実録 答申 011213}}。
 
=== 一部を黒塗りにして公開 ===