「黄金山神社 (石巻市)」の版間の差分

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== 信仰 ==
[[ファイル:Kinkazan.jpg|180px|right|thumb|牡鹿半島から望む金華山]]
金華山は古く牡鹿半島周辺沿岸部の人々から崇拝の対象として、殊に漁民からは海上安全や漁の守護神として信仰を受けていたと思われ、後世の例ではあるが[[鰹]]漁といった遠洋での漁を行う者は沖を離れて金華山の姿が三分の一程度[[水平線]]に沈んだ辺り(およそ20[[海里]])を「サンノゴテ(三の御殿)」と称して順次「ニノゴテ(二の御殿)」等となり、島影が小さく星の形のように見える地点(およそ45海里)を「ニオボシ(乳穂星カ)」と、完全に水平線下に没すると「ヤマナシ(山無し)」と称する等、金華山を山当て(漁場との距離を測る目安)に利用し、山容が見えない「ヤマナシ」にあっても日没時には金華山へ向かって[[灯明]]を捧げて拝む習いであったといい、また、遠洋から戻る際に「ニオボシ」を目にした時には得も言われぬ安堵感を覚えたとも言われる<ref name="宮田"/>。その他、出漁に際しては金華山で祈祷を受け、山容を目に出来る島浜では正月等に必ずこれを拝むといい<ref name="小野寺"/>、或いは沖を通行する船は灯明を点して[[米]]を海中に撒いて拝み、[[秋刀魚]]漁では7尾の秋刀魚を海中に捧げて漁の無事と大漁とを祈ったという<ref>『宮城県百科事典』(河北新報社、昭和57年)「金華山信仰」。</ref>。また、航路に就いた水夫も航海安全の神として信仰し、[[安政]]5年([[1858年]])の仙台藩の軍艦[[開成丸]]の航海においても、水夫達は金華山を「御山御山(おやまおやま)」と唱え、大金寺が視界に入ると手を洗い口を漱いで、白米を海中に撒いて拝礼したという<ref>[[小野寺鳳谷]]『開成丸航海日誌』。</ref>。
 
一方、古代から中世にかけて金華山に集まった修験者は大金寺を建立し、そこを拠点に峰々を巡る山中抖擻の修行に励んだと見られる。金華山修験の実態を伝える史料はないが、かつては島の東側に「[[金剛界]]」「[[胎蔵界]]」と呼ばれる所があったといい<ref name="大槻"/>、現存する島内の「胎内潜り」や「蘇字(そじゅ)峠」、「天狗相撲取場」といった地名が修験に関するものと思われる事や、山頂の大海祇神社(旧竜蔵権現)の傍らに[[護摩壇]]が組まれている事は、修験者の山中抖擻が行われた事を窺わせる<ref name="小野寺"/>。特に胎内潜りは修行の場である山を母胎と見る修験道の思想を体現するもので、巨岩の基部に空いた腹這いになって潜れる程度の穴を抜ける事で新たな験力を獲得して生まれ変わるという擬死再生の儀礼も行われていたと思われ<ref name="宮田"/><ref name="小野寺"/>、また、金華山の北東部海岸に位置する「[[賽の河原]]」は、そこを訪れると亡き縁者の声が聞けると言われているので、山形県の山寺([[立石寺]])や青森県恐山の[[菩提寺 (むつ市)|菩提寺]]と同様に祖霊・精霊の籠もる霊地としての信仰もあったと思われる<ref name="月光"/>。その大金寺における弁財天信仰は早くからのもので、それは『封内風土記』に載録する秀衡建立という48坊の坊名の頭文字が「大弁斎天」(大弁財天)の[[語呂合わせ]]となっている事にも窺えるが