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Fuck you Jews Bitch!
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{{Jews and Judaism sidebar}}
'''ユダヤ人'''({{lang-he|יהודים}}{{efn2|{{lang-*-Latn|he|Yehudim}}}}、{{lang-en|Jews}}、{{lang-lad|Djudios}}、{{lang-yi|ייִדן}}{{efn2|{{lang-*-Latn|yi|Jidn}}}})は、[[ユダヤ教]]の信者(宗教集団)またはユダヤ人を親に持つ者(血統)によって構成される宗教的[[民族|民族集団]]のこと。原義は狭義のイスラエル民族のみを指した。由来はイスラエル民族のひとつ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことからきている。ユダヤ教という名称は、ユダヤ民族が多く信仰していた宗教であることによる。
 
[[ヨーロッパ]]では[[19世紀]]中ごろまでは、イスラエル民族としての用法以外には主として[[ユダヤ教]]の信者というとらえ方がなされていたが、近代的[[国民国家]]が成立してからは宗教的[[民族|民族集団]]としてのとらえ方が広まった。[[ハラーハー]]では、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人であると規定されている{{Sfn|関|2003|p=1}}。
 
現在の調査では、全世界に1,340万を超えるユダヤ教徒が存在する。民族独自の国家として[[イスラエル]]があるほか、各国に移民が生活している。ヘブライ人やセム人と表記されることもある。
 
ユダヤ人は[[ディアスポラ]]以降、世界各地で共同体を形成し、固有の宗教や歴史を有する[[社会的少数者|少数派]]の[[エスニック集団]]として定着した{{Sfn|関|2003|p=2}}。しかし、それらを総体的に歴史と文化を共有するひとつの[[民族]]として分類することはできない。
 
言語の面をみても、[[イディッシュ語]]の話者もいれば[[ラディーノ語]]の話者もいる。歴史的にはユダヤ人とはユダヤ教徒のことであったが、現状では国籍、言語、人種の枠を超えた、ひとつの尺度だけでは定義しえない文化的集団としか言いようのないものとなっている<ref>佐藤唯行 『英国ユダヤ人』 講談社〈講談社選書メチエ〉、1995年、16頁。</ref>。
 
== 定義 ==
「ユダヤ人はユダヤ教を信仰する人々である」という定義は古代・中世にはあてはまるが、近代以降ではユダヤ教徒の家系で[[キリスト教]]に改宗した人々([[フェリックス・メンデルスゾーン]]や[[グスタフ・マーラー]]、[[ハインリヒ・ハイネ]]、[[ベンジャミン・ディズレーリ]])や[[無神論]]者の人々([[ジークムント・フロイト]]や[[カール・マルクス]]など)も「ユダヤ人」とみなされることが多い。
 
なお、[[イスラエル]]国内において[[ユダヤ教]]を信仰していない者は、Israeli([[イスラエル人]])である。
 
イスラエルの国内法である[[帰還法]]は「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に[[改宗]]し他の[[宗教]]を一切信じない者」をユダヤ人と定義している。
 
また、ユダヤ人社会内や[[イスラエル]]国内においては、「ユダヤ人の母を持つ者」をユダヤ人と呼ぶのに対し、ヨーロッパなどでは、母親がユダヤ人でなくともユダヤ人の血統を持った者(たとえば母親が非ユダヤ人で父親がユダヤ人という場合)もユダヤ人として扱うことが多い。
[[Image:Maurycy Gottlieb - Jews Praying in the Synagogue on Yom Kippur.jpg|thumb|M. Gottlieb画、シナゴーグで祈るユダヤ人([[1878年]])]]
{{右|
[[画像:Targum.jpg|thumb|none|[[11世紀]]の翻訳書]]
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[[画像:Jewish Merchant Flag 1453-1793.svg|thumb|250px|{{FIAV|historical|}}[[オスマン帝国]]のユダヤ系人の旗(1453年 - 1793年)]]
過去の人種学ではユダヤ人という人種が存在しているという考え方もあった。[[ゴビノー]]はアラブ人とユダヤ人をあわせてセム人種と呼び、これを白人の中でも他人種との混血度の高い二級集団と断じた<ref>{{cite book |和書 |author=杉本淑彦|chapter=白人の形成. 白色人種論とアラブ人 - フランス植民地主義のまなざし|pages=64-65|title=白人とは何か? ホワイトネス・スタディーズ入門|editor=藤川隆男 |publisher=刀水書房 |date=2005-10 |isbn=4887083467}}</ref>。[[ナチズム]]はユダヤ人を人種として扱っているが、[[ニュルンベルク法|帝国市民法第一施行令]]による分類では、形式的にユダヤ教組織に属した人間も「人種としてのユダヤ人」になるとされた{{sfn|南|1994|p=57}}。
 
こうした見方からはユダヤ人特有の外見の特徴が存在するとされ、これに基づいた差別的検査も行われていた。しかし、ユダヤ人を身体的形質によって他と区別しうる集団としてとらえることはできず<ref name="内田樹2006,p.26">[[#内田樹2006|内田樹 2006]],p.26</ref>、すでに白人のみならず多数の[[黒人]]がともにユダヤ人として認められている。
 
現代社会ではユダヤ人はおおむね居住地のほかの住民と同化しており、これを血統主義的観点からのみ区分することはできない。そのため、ユダヤ人の[[混血#日本社会における混血|ハーフ]]とかクオーターとかいう形容は、まず用いられない。[[ドイツ]]の文芸評論家[[マルセル・ライヒ=ラニツキ]]は、自伝『[[わがユダヤ、ドイツ、ポーランド]]』(柏書房)の中で「私は、半分のポーランド人、半分のドイツ人、そして丸ごとのユダヤ人だ」と冗談めかした言い方でこのあたりの機微を突いている。
 
[[大澤武男]]は「歴史的な見地から『ユダヤ人』をユダヤ教を信じる人々と規定するなら『ユダヤ教徒』と呼ぶべきであり、単に『ユダヤ人』と呼称するのは適当ではない」とし、ユダヤ人を[[人種]]や[[民族]]と規定する見方は、[[19世紀]]以降の[[ナショナリズム]]、[[社会進化論]]、[[反ユダヤ主義]]の産物であり、また[[国籍]]を示す用語でもないという{{Sfn|大澤武男|1991|p=10}}。「ユダヤ人」は、キリスト教文化圏では一種の宗教的差別概念、また少数派、無国籍放浪者としての社会的差別概念を含む言葉として用いられてきた{{Sfn|大澤武男|1991|p=10}}。現在、イスラエル人やユダヤ教徒、またはユダヤ教がもたらした伝統や文化を堅持している人々を指して、ユダヤ人と呼ぶとする{{Sfn|大澤武男|1991|p=11}}。
 
[[内田樹]]は、英語であれば "Jew" や "Jewish" の一語で表せるが、日本語では単に「ユダヤ」とは呼ばず、その後に「〜人」「〜民族」「〜教徒」とつけて呼び習わしているが、「教徒」では宗教的な意味合いだけで考慮されることが多く、「〜人」「〜民族」という表現から(民族と人種の概念を混同して)「ユダヤ人」がひとつの「人種」であるという誤った印象を受けてしまう人もいるが、実際にはユダヤ人とほかの民族集団とを区別しうる有意な人種的特徴はないという<ref name="内田樹2006,p.26"/>。
 
=== 「○○ユダヤ人」 ===
{{節スタブ}}
* 同化ユダヤ人 - 全世界に散らばり、現地に「同化」した状態のユダヤ人。ユダヤ教以外の宗教を信仰する、[[シナゴーグ]](ユダヤ教の会堂)以外で結婚式を挙げる、非ユダヤ人と結婚するなど。
* 両属性ユダヤ人 - ユダヤ教に興味がない、または無神論者でユダヤ教の生活習慣に従わないため、ユダヤ人からは「非ユダヤ人」と見なされるが、ユダヤのアイデンティティーを強く持っているユダヤ人。ユダヤ人と非ユダヤ人の境界線上にあるユダヤ人。
* 東欧系ユダヤ人([[アシュケナジム]]) - ユダヤ系の[[ディアスポラ]]のうちドイツ語圏や[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国などに定住した人々、およびその子孫。言語は[[イディッシュ語]](ユダヤドイツ語)。
:* 西方ユダヤ人 - [[フランス]]やドイツ語圏に居住し、イディッシュ語を話すアシュケナジム。
:* 東方ユダヤ人 - 非ドイツ語圏に居住し、イディッシュ語を話すアシュケナジム。
* スペイン系ユダヤ人([[セファルディム]]) - ユダヤ系のディアスポラのうち、おもに[[スペイン]]・[[ポルトガル]]または[[イタリア]]・[[トルコ]]などの[[南ヨーロッパ|南欧]]諸国に[[15世紀]]前後に定住した人々、およびその子孫。言語は[[ラディーノ語]](ユダヤスペイン語)。
* [[ナチズム]]による定義
:* ユダヤ人 - 両親・祖父母のうち一人でもユダヤ教を信仰したことがある人。非[[アーリア人]]。
:* 完全ユダヤ人 - 祖父母のうち3人以上が「人種上の全ユダヤ人」である人。信仰によらない。
:* 非ユダヤ教徒ユダヤ人 - ユダヤ人と婚姻していた人。
*古代ユダヤ人の生物学的子孫はパレスチナに住むユダヤ教徒やキリスト教徒やイスラム教徒である。
 
== 民族性 ==
歴史上、ヨーロッパのキリスト教社会で多くの中傷や迫害を受けたが、現在でもユダヤ人は民族(コミュニティ・ユダヤ教徒)として存続している。
 
ユダヤ教徒は教義上[[イエス・キリスト]]を[[メシア]]と認めなかった([[メシアニック・ジュー]]は[[異端]]視された)。また、イエスに従った[[使徒]]もユダヤ人であったにもかかわらず、キリストはユダヤ人によって[[十字架]]にかけられたという俗説が古代から中世にかけて流布し、それまで「[[選民としてのユダヤ人|神に選ばれた選民]]」だったユダヤ人は一転して「神(イエス)を殺した[[賎民]]」と差別されるようになった。こうした宗教的な理由や、ユダヤ人はキリスト教社会で疎まれていた[[金貸し]]が多かったという経済的理由が歴史的な反ユダヤ感情の要因としてしばしば挙げられる<ref>[[#内田樹2006|内田樹 2006]],43-47頁</ref>。
 
[[18世紀]]ごろから宗教的迫害が薄れていったことで、ユダヤ人は自由な信仰、活動が可能になり、さまざまな商工業分野でユダヤ人が活躍するようになった。近現代には企業の創業者や[[科学者]]を多数輩出している<ref>{{cite book |和書|title=ユダヤ5000年の教え |author=ラビ・マービン・トケイヤー |publisher=実業之日本社 |date=2004-04 |isbn=4-408-39551-X}}{{要ページ番号|date=2019-03-03}}</ref>。
 
ユダヤ人は[[タルムード]]に従って行動すると思われているが、それはラビ的ユダヤ教徒の場合に限られる。ただし、一般的なユダヤ人の宗教はラビ的ユダヤ教である。ユダヤ人は何よりも[[学問]]を重視すると言われる。紀元[[70年]]に[[ローマ軍]]によりイスラエルが一度滅びたときもラビ・ヨハナンが10人が入れる[[学校]]を残すことを交渉し、ローマ皇帝[[ティトゥス]]がこれを許したため、ユダヤ人は絶滅を免れた。今ではもっとも知的な民族集団のひとつと考えられており、民族別[[知能指数]]では世界でもっとも高く<ref>Herrnstein and Murray 1994; Richard Lynn 1991a; Lynn 2006{{Full citation needed |date=2019-03-03 |title=文献の著者名と刊行年が3組書かれているようですが、それぞれがどの文献を指しているのか不明です。指示対象の文献が本記事内に書かれていないようです。}}</ref>、一例として[[ノーベル賞]]の22%、[[フィールズ賞]]の30%、[[チェス]]の世界チャンピオンの54%がユダヤ人であるとも言われる。[[カール・マルクス]]、[[ジークムント・フロイト]]、[[クロード・レヴィ=ストロース]]など、近現代の[[哲学]]・[[思想]]方面のキーパーソンを輩出しているほか、[[音楽]]業界にもユダヤ人が多いことが知られている<ref>[[#内田樹2006|内田樹 2006]],176-177頁</ref>。
 
[[ドイツ]]を中心とした地域に住みつき、[[中央ヨーロッパ|中欧]]・東欧へ拡散したユダヤ人は、アシュケナージ([[アシュケナジム]])と呼ばれ、[[ドイツ語]]の[[方言]]である[[イディッシュ語]]を話していた。近代のドイツ語圏では彼らはある程度ドイツ文化に同化してドイツ語を使用するようになった。
 
中世前期のヨーロッパでは、ユダヤ人は農業、商業、職人などさまざまな職業に従事することができた。[[カロリング朝]]ではユダヤ人は聖書の民として保護され、[[11世紀]]頃までは国際的な交易の担い手でもあった。イタリア商人に東方貿易のお株を奪われると、ユダヤ人は[[消費貸借]]専門の貸金業に活路を見出した。中世後半期には、土地所有の禁止、ギルドからの締め出し、公職追放等により次第にユダヤ人の活動は制限されるようになり、[[農業]]や[[手工業]]に従事することが困難になったユダヤ人は、[[質屋]]、[[両替商]]、黄金の管理人、古物商、行商や市場での無店舗販売、芸能などで生計を立てていた。
 
また、世界的に散らばり独自の情報ネットワークを持っていた。[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]は「[[フランクフルト]]でユダヤ人の足を踏んだら[[モスクワ]]から[[サンフランシスコ]]まで情報が行き渡る」と指摘していた。こうしたことから、現在でもユダヤ人にはメディア関係が多いとされる。
 
また[[ロスチャイルド家]]は銀行業で成功したユダヤ系財閥として知られる。[[19世紀]]末の[[アメリカ合衆国]]のユダヤ系移民もまた、[[金融]]や[[メディア]]、流通業などの間隙的な業種以外の業界への参入が難しかった。[[ハリウッド]]の映画産業にはユダヤ人が創業したものが多い<ref>[[#内田樹2006|内田樹 2006]], p. 175.</ref>。
 
スファラディ([[セファルディム]])系ユダヤ人は、[[オスマン帝国]]圏や[[スペイン]]・フランス・[[オランダ]]・[[イギリス]]などに多く、かつては[[ラディーノ語]]を話していた。キリスト教に改宗した人々は[[マラーノ]]と呼ばれた。
 
アシュケナージや、スファラディといったヨーロッパに移り住んだユダヤ人に対して、[[中東]]地域、[[アジア]]地域に移り住んだユダヤ人は[[ミズラヒム]](ミズラヒ)と呼ばれていた。
 
ほかにも[[イラン]]、[[インド]](おもに3集団)・[[中央アジア]]・[[グルジア]]・[[イエメン]]・[[モロッコ]]などを含んだ大きな観念であるミズラヒム、[[カライ派|カライ派・カライム人]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[ジンバブエ]]などのユダヤ人のほか、インド({{仮リンク|ミゾ人|en|Mizo people|label=ミゾ族}})・[[ウガンダ]]({{仮リンク|アバユダヤ|en|Abayudaya}})・アメリカ[[黒人]]([[ブラック・ジュー]])などの新たな改宗者、イスラエル建国はメシア到来まで待つべきだとする[[サトマール派]]・[[ナートーレー=カルター|ネトゥレイ・カルタ]]、キリスト教関連の[[メシアニック・ジュダイズム]]、[[ネオ・ジュダイズム]]など多くの分派もある。[[エチオピア]]・[[ベルベル人|ベルベル]]のユダヤ人は孤立して発展し、[[タルムード]]を持たない。
 
現在世界に散らばるユダヤ人は、すべてがユダヤ教徒というわけではないが、ユダヤ人にとってユダヤ教は切り離せない宗教である。写真はユダヤ人の言語([[ヘブライ語]])から各国語に翻訳された[[聖書]]の一部である。
 
=== 世界のユダヤ民や宗教的集団 ===
世界に散らばるユダヤ教徒のコミュニティーや宗教的集団には以下がある。
*[[イシューブ]](イスラエル([[パレスチナ国|パレスチナ]])の地のユダヤ教徒)
*[[ミズラヒム]]
**[[北アフリカ]]のユダヤ人({{仮リンク|マグレビーム|en|Maghrebim}})
***[[モロッコ]]のユダヤ人
***[[アルジェリア]]のユダヤ人
***:フランス植民地統治下のアルジェリアでは、原住民のイスラム教徒が参政権を持たない下級市民とされたのに対し、ユダヤ教徒(セファルディム、ミズラヒム)に対してはフランスの完全市民権が付与された。このため、ユダヤ教徒はフランス本国からの{{仮リンク|入植者|label=入植者 (コロン)|redirect=1|fr|Colon (personne)}} と同化し、[[フランス語]]を母語とするようになり、自らをヨーロッパ人と考えるようになった。
 
このため、アルジェリアの独立時には多くのユダヤ教徒が[[フランス人]]としてコロンとともにフランス本国に引き揚げコロンとひとまとめに「[[ピエ・ノワール]]」と呼ばれるようになった。ただし、独立以前にもフランス内地へ移住するユダヤ教徒がいなかったわけではない。これらの人々の中からはフランスで著名な[[歌手]]・[[俳優]]なども多く輩出されている([[クロード・ルルーシュ]]、[[エンリコ・マシアス]](セファルディム)など)。
***{{仮リンク|チュニジア・ユダヤ人|en|Jews in Tunisia}}
**[[イランのユダヤ人|ペルシア・ユダヤ人]]({{Lang|en|Persian Jews}})
**[[イエメン・ユダヤ人]]
**[[ベタ・イスラエル]]([[ファラシャ]])([[エチオピア]]のユダヤ人)
**[[山岳ユダヤ人]]<small>({{仮リンク|タート人 (コーカサス)|en|Tat people (Caucasus)|label=タート}}・ユダヤ人。ダゲスタン、アゼルバイジャン、アルメニアのタート人社会の内部)</small>
**[[グルジーム]]
**[[ブハラ・ユダヤ人]](タジキスタンから中央アジア全土)
*{{仮リンク|インドと周辺のユダヤ人|en|Jews in India}}
**[[コーチン・ユダヤ人]]
**{{仮リンク|クナナヤ|en|Knanaya}}(キリスト教徒)
**[[ベネ・イスラエル]]
**{{仮リンク|ボンベイ・ユダヤ人|en|Bombay Jews}}
**{{仮リンク|バグダーディ・ユダヤ人|en|Baghdadi Jews}}(イラク系)
**[[マニプール・ユダヤ人]](集団改宗者)
*{{仮リンク|中国のユダヤ人|en|Jews in China}}
**[[開封のユダヤ人|開封市のユダヤ教徒]]
*[[ヘレニスト]]
**[[ロマニオット]](「ローマ人」、ユダヤ系[[ギリシャ人]])
*{{仮リンク|イタリアのユダヤ教徒|en|History of the Jews in Italy}}(北部にはアシュケナジムが多い)
*ツァルファーティー({{仮リンク|フランスのユダヤ人|en|History of the Jews in France|label=フランス系ユダヤ教徒}})消滅した世代と残留者、新しい世代(諸地域・諸国からの移民)
*[[セファルディム]]
*[[アシュケナジム]]
*:{{仮リンク|アイルランドのユダヤ人|en|Jews in Ireland}}(ツァルファーティー・セファルディムとアシュケナジム)
*{{仮リンク|アバユダヤ|en|Abayudaya}}
*{{仮リンク|レンバ族|en|Lembas}}([[ジンバブエ]])
*[[サマリア人]]
*[[ブラック・ジュー]]
*[[ハザール]]のユダヤ人
**{{仮リンク|クリミア・カライム人|ru|Караимы|en|Crimean Karaites|FIXME=1}}([[カライ派]])
**[[クリムチャク人]]
*{{仮リンク|ユダヤ=キリスト教徒|en|Judeo-Christians}}
**[[メシアニック・ジュダイズム|メシアニックのユダヤ教徒]]
 
(英語版の記事「[[:en:Jews by country|{{lang|en|Jews by country}}]] [[:en:List of Jews from the Arab World|{{lang|en|List of Jews from the Arab World}}]]」も参照)
 
(エジプト、メソポタミア、モロッコ、トルコ、ペルシアなどのコミュニティーに関しては英語版の記事「[[:en:Islam and Judaism|{{lang|en|Islam and Judaism}}]]」も参照)
 
==歴史==
{{See also|en:Jewish history|ユダヤ教|反ユダヤ主義}}
 
===古代===
{{main|古代イスラエル}}
 
[[旧約聖書]]によると、民族の始祖[[アブラハム]]が、[[メソポタミア]]の[[ウル]](現在の[[イラク]]南部)から部族を引き連れて「[[カナン]]の地」(現在の[[イスラエル]]、[[パレスチナ]]付近)に移住したとされる。
 
'''ヘブライ人'''と呼ばれる彼らは、この付近で遊牧生活を続けた(ヘブライの原義は不明で諸説あるが、一説には「渡り歩く人」の意<ref>{{Cite book |和書|title=[[岩波キリスト教辞典]] |page=1014 |date=2002-06 |publisher=岩波書店|editor=大貫隆ほか |isbn=400080202X}}(「ヘブライ人」の項目。著者:月本昭男)</ref>)。
 
[[紀元前17世紀]]ごろ{{efn2|[[紀元前17世紀]]には、[[ヒクソス]]がエジプトへ移住し、[[エジプト第15王朝]]([[紀元前1663年]]頃 - [[紀元前1555年]]頃)を興している。[[紀元前1628年]]には[[ギリシャ]]の[[サントリーニ島]]で{{仮リンク|ミノア噴火|en|Minoan eruption}}が起こり、[[火山の冬]]が原因で気候が大きく変動し、カナンに居住し続けるのが困難になった。}}、ヘブライ人はカナンの地から古代エジプトに集団移住した。古代エジプトの地で奴隷とされた。
 
その後、[[エジプト第19王朝]]の時代に、再び大きな気候変動が起こり{{efn2|[[紀元前1200年]]頃に、[[アイスランド]]・[[ヘクラ山]]の{{仮リンク|第三ヘクラ大噴火|en|Hekla 3 eruption}}が原因と考えられる世界的な気温低下による[[前1200年のカタストロフ]]が起こった。}}、エジプトのヘブライ人指導者[[モーセ]]が中心となり、約60万人の人々がエジプトから[[シナイ半島]]に脱出を果たす([[出エジプト]])。彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)にたどり着き、この地の先住民であった[[カナン人]]や[[ペリシテ人]]を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。このころから'''イスラエル人'''を自称するようになり、[[ヘブライ語]]もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。[[紀元前1207年]]の出来事を記したエジプトの{{仮リンク|メルエンプタハ石碑|en|Merneptah Stele|label=イスラエル石碑}}に:<hiero>i-i-z:Z1s*Z1s:r-i-A-r:Z1-T14-A1*B1:Z2s</hiero> ([[ヒエログリフ]]:𓇋-𓇋-𓊃:𓏤*𓏤:𓂋-𓇋-𓄿-𓂋:𓏤-𓌙-𓀀*𓁐:𓏥 - {{lang|und-Latn|YSRYR}} - イスラエル)と記されているのがイスラエルという部族についての最古の文献である。
 
紀元前10世紀ごろ、古代イスラエル人は[[ヤハウェ]]信仰(ユダヤ教の原型)を国教とする[[古代イスラエル|古代イスラエル王国]]をカナン(パレスチナ)に建国した。ユダヤ人は、紀元前1000年ごろと推定されるダビデ王の時代には、推定500万の人口を持っていたとされる。ちなみに、ある統計によれば同時代の世界人口は約5,000万人<ref>Colin McEvedy and Richard Jones, 1978, "Atlas of World Population History," Facts on File, New York, ISBN 0-7139-1031-3.{{要ページ番号|date=2019-03-03}}</ref>、[[縄文時代]]だった日本列島の人口は推定で10数万である<ref>加藤徹『貝と羊の中国人』新潮社〈[[新潮新書]]〉、2006年、78頁。</ref>。[[ソロモン|ソロモン王]]の死後、紀元前930年ごろ、北の[[イスラエル王国]]と南の[[ユダ王国]]に分裂した(「ユダヤ」とは元来、ユダ王国のあったパレスチナ南部を指す)。北のイスラエル王国は紀元前721年に[[アッシリア]]によって滅ぼされ、多くの人民が捕虜として[[アッシリア]]にとらわれるか離散した([[アッシリア捕囚]]、[[イスラエルの失われた10支族|失われた十支族]])。南のユダ王国は、[[紀元前609年]]に[[メギドの戦い (紀元前609年)|メギドの戦い]]でエジプトに敗北し、エジプトの支配下に入ったが、[[紀元前606年]]に[[カルケミシュの戦い]]でエジプトが[[新バビロニア]]に敗れた。[[紀元前587年]]に[[新バビロニア]]の侵攻に会い({{仮リンク|エルサレム包囲戦 (紀元前587年)|en|Siege of Jerusalem (587 BC)}})、翌年にはユダ王国が滅亡して{{仮リンク|エフド (新バビロニア)|en|Yehud (Babylonian province)|label=エフド}}と呼ばれる属州が置かれ、多くの人民が捕虜として[[バビロン]]にとらわれた([[バビロン捕囚]])。彼らはユダ王国の遺民という意味で'''ユダヤ人'''と呼ばれるようになった。
 
[[紀元前539年]]の[[オピスの戦い]]で、[[アケメネス朝]]ペルシアによって新バビロニア王国が滅亡すると、捕囚のユダヤ人は[[キュロス2世]]によって解放されてエルサレムに帰還し、ペルシア帝国の支配下で統一イスラエルの領域で自治国{{仮リンク|エフド・メディナタ|en|Yehud Medinata}}として復興された。
 
'''[[ユダヤ教]]'''の教義も、このころにほぼ確立された。アケメネス朝の滅亡後、[[古代マケドニア]]王国、[[セレウコス朝]]シリアなどに[[宗主国]]が引き継がれ、最終的には[[ローマ帝国]]領の[[ユダヤ属州]]とされる。このころにはヘブライ語はすでに古典語となり、日常語としては系統の近い[[アラム語]]にほぼ取って代わり、のちに国際語として[[ギリシャ語]]も浸透した。
 
また、[[ヘレニズム]]諸国の各地に商人などとして移住したユダヤ人移民([[ディアスポラ]])の活動も、このころに始まる。ローマ支配下の紀元20年代ごろ、ユダヤ属州北部[[ナザレ]]の民から出た[[イエス・キリスト]]([[ナザレのイエス]])が活動したと伝えられる。
 
[[66年|紀元66年]]から[[ローマ帝国]]に対し反乱を起こすが([[ユダヤ戦争]])、鎮圧されてユダヤ人による自治は完全に廃止され、厳しい民族的弾圧を受けた。[[132年]]、[[バル・コクバの乱]]が起こったが鎮圧され、ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名や、ユダヤ属州という地名も廃され、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来する'''パレスチナ'''という地名があえて復活された。以来ユダヤ人は2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民が[[ヨーロッパ]]を中心に世界各国へ移住して離散した({{仮リンク|ユダヤ人離散|en|Jewish diaspora}})。
 
以降、ユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、各地への定着が進む。その後もパレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在の[[パレスチナ人]]になったと考えられる。
 
===古代末期から中世===
{{main|{{仮リンク|ヨーロッパのユダヤ人の歴史|en|History of the Jews in Europe}}}}
[[画像:Expulsion judios-en.svg|thumb|right|500px|1100年から1600年にかけてのヨーロッパにおけるユダヤ人の追放による民族移動を示す地図]]
[[画像:Cohanim DNA migration.jpg|thumb|[[:en:Joseph Felsenstein|Joseph Felsenstein]]のソフトウェアによる解析結果に基づく、J2 DNA [[:en:Kohen|Kohanim]]の3000年間の民族移動を示す地図]]
 
[[7世紀]] - [[10世紀]]に、カスピ海北部に[[ハザール|ハザール王国]]が出現し、ユダヤ教を国教としたが、その後相次いだロシア、ルースィ、ブルガール、オグズとの戦争により王国は滅んでいる。残党のハザール人も、結局はイスラム教に改宗したが、ユダヤ教カライ派の信仰を保っているハザール人の集落が東ヨーロッパにわずかに現存している。
 
[[ディアスポラ]]後の[[民族移動時代]]([[2世紀]] - [[7世紀]])、ほとんどのユダヤ人は依然として地中海沿岸に住んでいた。[[697年]]に[[ウマイヤ朝]]が[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]との抗争で疲弊していた[[東ローマ帝国]]の[[カルタゴ]]および[[北アフリカ]]を征服し、[[711年]]の[[グアダレーテ河畔の戦い]]で[[西ゴート王国]]を滅ぼし[[イベリア半島]]に進出した。[[ジュデズモ語]]を話す[[セファルディム]]も[[イベリア半島]]に定住し、8世紀から9世紀には北フランスにも定住し、その後ヨーロッパ各地に散ったが、ユダヤ人はユダヤ教の信仰を堅持した。
 
[[レコンキスタ]]・[[十字軍]]時代に、[[ヨーロッパ]]の[[キリスト教]]社会では、「キリスト殺し」の罪を背負うとされていたユダヤ人はムスリムとともに常に迫害された。封建制度に内属していなかった彼らはヨーロッパの多くの国で土地所有を禁じられて[[農業]]の道を断たれ、商工業[[ギルド]]に加入することができなかったため、[[職人|職工]]の道も閉ざされ、店舗を構える商売や国際商取引も制限されていた。
 
しばしば追放処分を受け、住居も安定しないユダヤ人がつける仕事は事実上消費者金融や無店舗の行商、芸能以外には存在しなかった。[[1066年]]、イスラム支配下の[[アンダルス]]で{{仮リンク|グラナダ虐殺 (1066年)|en|1066 Granada massacre}}が起こり、多数の{{仮リンク|ベルベル・ユダヤ人|en|Berber Jews}}が犠牲となった。[[イギリス]]のユダヤ人はこのころに主に[[フランス]]からイングランドに渡った一群が最初とされる(ユダヤ人は王の所有物として農奴や金融を生業として13世紀末までその数を増やしていったが、十字軍精神の高まりにより追放され、一部を除きいったん姿を消し、17世紀半ばに再びフランス、スペイン、ポルトガルから流入し繁栄した)<ref>{{cite web |url=http://www.jtrails.org.uk/cms_file/?file_id=312 |format=PDF|title=THE STORY OF ENGLAND’S JEWS The First Thousand Years |author= Marcus Roberts |publisher=National Anglo-Jewish Heritage Trail |date=2007 |accessdate=2019-03-03}}</ref>。
 
[[11世紀]]末頃にはすでにユダヤ人は「[[高利貸し]]」の代名詞になっていた。被差別民でありながら裕福になったユダヤ人は妬まれ、ユダヤ人迫害はますます強まっていった{{Sfn|大澤|1996|p=36}}。
 
[[セルジューク朝]]が西方に領土を拡大し、[[東ローマ帝国]]領の[[アナトリア半島]]を占領すると、[[アレクシオス1世コムネノス]]は[[教皇|ローマ教皇]][[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]に救援を求めた。[[1095年]]11月に[[クレルモン教会会議|クレルモン公会議]]が開催され、翌年に[[民衆十字軍]]と[[第1回十字軍]]が開始され、[[エルサレム王国]]が設立された。これ以後、約200年にわたって、[[十字軍]]は7回の遠征を行った。
 
[[1150年]]ごろ、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]にユダヤ人が居住した記録が残っている{{Sfn|大澤|1996|p=44}}。[[13世紀]]になってキリスト教徒とユダヤ教徒との交際が禁止されるなど、ユダヤ人は迫害を受けるようになり、社会不安が高まるごとにユダヤ人は迫害の対象とされていき、職の追放なども行われた。[[神聖ローマ帝国]]のユダヤ人は、神聖ローマ帝国一般臣民とは区別される存在で、「王庫の従属民」と呼ばれる法的地位を与えられて皇帝の保護を受け、皇帝に{{仮リンク|ユーデンシュトイアー|de|Judensteuer<!-- 曖昧さ回避ページ -->|label=ユダヤ人税|FIXME=1}}(ユーデンシュトイアー)の納税義務を負っていた。のちの[[オスマン帝国]]においても[[ジズヤ]]([[人頭税]])の納税義務を負っていたが、ほぼ同じ制度である。
 
[[東方植民]]時代([[12世紀]] - [[14世紀]])には[[モンゴルのポーランド侵攻]]で人口が減少した[[ポーランド王国]]へ進出し、[[イディッシュ語]]を話す[[アシュケナジム]]が定住を始めた。[[1264年]]の[[カリシュの法令]]によって権利および安全を[[ポーランド王]]および[[シュラフタ]](ポーランドの貴族共和政を担った階級)の庇護のもとに保障され、[[1290年]]に[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]による{{仮リンク|追放布告|en|Edict of Expulsion}}で[[イングランド]]を追放されると、ユダヤ人はポーランドに集まり生活し、ユダヤ人社会「[[シュテットル]]」を形成した。
 
[[ペスト#14世紀の大流行|14世紀のペスト大流行]]([[:en:Black Death migration|en]])のころから弾圧として、ヨーロッパ中で隔離政策が取られるようになっていき、市街地中心から離れた場所に設けられた[[ゲットー]]と呼ばれる居住区に強制隔離されることが一般化した。
 
[[1462年]]にフランクフルトのユダヤ人は[[フランクフルト・ゲットー]]に居住するようになった。[[1467年]]、[[ポーランド王国]]と[[ドイツ騎士団]]の間で{{仮リンク|司祭戦争|en|War of the Priests (Poland)}}が勃発し、1479年に[[ピョートルクフの講和]]({{lang-en|Treaty of Piotrków}})が結ばれると、[[カジミェシュ4世 (ポーランド王)|カジミェシュ4世]]の治める[[ピョートルクフ・トルィブナルスキ|ピョートルクフ]]に[[神聖ローマ帝国]]を追放されたドイツ人とユダヤ人が移住した。[[1488年]]、イタリアの[[ソンチーノ]]に逃れたユダヤ人によって "Casa degli Stampatori"([[:it:Soncino#Musei]])で[[ヘブライ語聖書]]([[タナハ]]、[[旧約聖書]])が印刷され、印刷技術が世界中に広がるきっかけとなった。16世紀には[[ヴィリニュス]]にも居住するようになった。
 
[[1492年]]に[[イベリア半島]]で[[レコンキスタ]]が完了し、[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の治世に[[異端審問]]制度による[[スペイン異端審問]]が始まると、[[モリスコ追放]]によって[[セファルディム]]の多くが[[北アフリカ]]に追放され、[[ポルトガル]]に逃れたユダヤ人もカトリックへの改宗を迫られ、[[新キリスト教徒]]と呼ばれるユダヤ人が誕生した。
 
[[セファルディム]]の{{仮リンク|フェルナン・デ・ロローニャ|en|Fernão de Loronha}}({{lang-pt-short|Fernão de Loronha}})は、赤い染料「[[ブラジリン]]」を抽出できる[[ブラジルボク|パウ・ブラジル]]の専売権を得て、[[ブラジル]]の植民地開拓期に活躍した。
 
===初期近代===
[[1600年]]に[[イギリス]]の作家[[ウィリアム・シェイクスピア]]が発表した[[戯曲]]『[[ヴェニスの商人]]』では、主人公の友人を借金の形としたユダヤ人高利貸という設定のシャイロックという人物が登場した。
 
[[1648年]]に[[ウクライナ]]で起こった[[フメリニツキーの乱]]では、{{仮リンク|ザポロージャン・コサック|en|Zaporozhian Cossacks|label=ザポロージャ・コサック}}による[[ポグロム]]によって多くの犠牲者を出した。[[1657年]]にユダヤ人の追放を[[オリバー・クロムウェル]]が解除し、ユダヤ人がイングランドへ367年ぶりに帰還した。
 
===近代===
[[ファイル:Map showing percentage of Jews in the Pale of Settlement and Congress Poland, c. 1905.png|thumb|300px|{{仮リンク|ユダヤ教徒居住区|en|Jewish Pale}}およびロシア帝国領ポーランド内のユダヤ人分布図(数値は百分率(%)、1905年)]]
[[啓蒙時代]]([[17世紀]] - [[18世紀]])になると、[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]らによる宗教を超えた[[汎神論論争]]を[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]が肯定すると、[[モーゼス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]](『[[賢者ナータン]]』のモデルとして知られる)もこれを擁護して[[ハスカーラー]]と呼ばれる啓蒙運動がユダヤ人の間で開始された。ハスカーラーに抵抗のあった人たちの中から[[1740年]]ごろ、[[ガリチア]]で[[イスラエル・ベン・エリエゼル|バアル・シェム・トーブ]]が[[ハシディズム]]を開始した。[[1786年]]、ロシアが{{仮リンク|ユダヤ教徒居住区|en|Jewish Pale}}({{lang-ru-short|Черта́ осе́длости}}、{{lang-yi|דער תּחום-המושבֿ}})を設置。[[1795年]]に[[ポーランド分割]]([[1772年]]・[[1793年]]・[[1795年]])が実施され、[[ポーランド・リトアニア共和国]]が消滅して東部(旧[[リトアニア]]公国領)がロシアに併合された。ポーランドが消滅してその庇護を失ったユダヤ人は、[[ハプスブルク家]]へ庇護を求めたが、ウクライナ人・ベラルーシ人から裏切り行為と受け取られた。[[1806年]]7月、[[神聖ローマ帝国]]が解体され、[[1811年]]に[[カール・テオドール・フォン・ダールベルク]]が[[ナポレオン法典]]をもとにフランクフルトのユダヤ人に市民権を認めた。
 
しかし、ナポレオンが敗退すると、[[1814年]]にはユダヤ人の市民権と選挙権が再び剥奪された。[[1819年]]、[[ドイツ]]の[[ヴュルツブルク]]で[[ポグロム]]が発生し、瞬く間にドイツ文化圏全域で{{仮リンク|ヘプヘプ暴動|en|Hep-Hep riots|label=ヘプヘプ・ポグロム}}が起こった。[[1821年]]にはウクライナで{{仮リンク|オデッサ・ポグロム|en|Odessa pogroms}}が起こった。
 
[[1848年]]、[[ハンガリー革命 (1848年)|ハンガリー革命]]に参加した{{仮リンク|ハンガリーのユダヤ人の歴史|en|History of the Jews in Hungary|label=ハンガリー系ユダヤ人}}({{lang-en-short|Hungarian Jews}})が弾圧された。これをきっかけに[[アルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェン]]によってハンガリーも[[1851年]]から[[1860年]]にかけて[[ドイツ化]]が進行した。[[1864年]]、フランクフルトのユダヤ人に再び市民権が認められ、[[1871年]]に[[ドイツ帝国]]が建国された際、ユダヤ人は正式にドイツ国民としての権利を与えられた。
 
{{Seealso|東方問題|{{仮リンク|オスマン帝国分割|en|Partitioning of the Ottoman Empire}}|エジプト・シリア戦役|エジプト・トルコ戦争}}
 
19世紀後半になると、主に旧[[リトアニア]]公国の領域([[ベラルーシ]]・[[ウクライナ]]・[[モルドバ|モルドヴァ]])で、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、[[コサック]]などの一揆の際にユダヤ人が襲撃の巻き添えとなった。[[1881年]]に[[アレクサンドル2世]]が暗殺されると、帝政[[ロシア]]政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したため反ユダヤ運動が助長されることになり、[[:en:Anti-Jewish pogroms in the Russian Empire#1881-1884|ロシアで反ユダヤ主義のポグロム]]([[1881年]] - [[1884年]])が起こった。ユダヤ人は[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー帝国領]][[ブロディ]]へ大量に脱出したため町が混乱すると、[[1882年]]に[[:en:May Laws|May Laws]]が発布され、ユダヤ人への締めつけが実施された。
 
[[1890年]]、[[エリエゼル・ベン・イェフダー]]が[[パレスチナ]]に「ヘブライ語委員会」(「[[ヘブライ言語アカデミー]]」の前身)を設立。[[1894年]]に[[フランス]]で[[ドレフュス事件]]が起こり、同年には「{{仮リンク|イディッシュ・ルネッサンス|en|Yiddish Renaissance|label=イディッシズム}}」を代表する作家、[[ショーレム・アレイヘム]]による『{{仮リンク|牛乳屋テヴィエ|en|Tevye}}』(『[[屋根の上のバイオリン弾き]]』の項を参照)が発表された。[[1896年]]、[[テオドール・ヘルツル]]が「{{仮リンク|ユダヤ人国家|en|Der Judenstaat}}」を発表。
 
[[1900年]]には[[黒百人組]]が結成され、[[1903年]]から[[1906年]]にかけてロシアで度重なるユダヤ人襲撃が起こった({{仮リンク|キシナウ・ポグロム|en|Kishinev pogrom}})。各国でポグロムやユダヤ人襲撃が行われたことが引き金となり、古代に祖先が暮らしていたイスラエルの地に帰還してユダヤ人国家を作ろうとする[[ナータン・ビルンバウム]]による[[シオニズム|シオニズム運動]]が起きた。「ユダヤ人」は世界に離散後もそのほとんどがユダヤ教徒であり([[キリスト教]]や[[イスラム]]に改宗した途端、現地の「民族」に「同化」してしまう)、ユダヤ教の宗教的聖地のひとつであるイスラエルの地に帰還することもその理由のひとつである。
 
====第一次世界大戦====
[[1914年]]11月にイギリスが[[オスマン帝国]]に宣戦布告すると、ユダヤ人シオニストの閣僚・[[ハーバート・サミュエル]]が「[[:en:s:The Future of Palestine|The Future of Palestine]]」を閣僚に回覧した。当時、パレスチナは[[:en:Syria Vilayet|Vilayet of Damascus]]南西部にあったが、[[1915年]][[10月24日]]の[[フサイン・マクマホン協定]]のこの部分に関する解釈がのちに大論争となった。
 
[[第一次世界大戦]]が始まると大量の[[コルダイト火薬]]が必要になったが、その原料の[[アセトン]]供給を握っていたのは[[ロシア帝国]]の化学者でシオニストの[[ハイム・ヴァイツマン]]であった。このことでイギリス政府閣僚との知古を得たヴァイツマンは[[アーサー・バルフォア]]に[[バルフォア宣言]]を働きかけた。[[1916年]][[5月16日]]には[[サイクス・ピコ協定]]が締結された。[[アラブ反乱]]([[1916年]]6月 - [[1918年]]10月)。[[1917年]]に熱心なシオニストの[[ウォルター・ロスチャイルド (第2代ロスチャイルド男爵)|第2代ロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルド]]はイギリス政府から[[バルフォア宣言]]を取りつけ、イギリス政府はシオニズム支持を表明することになった。この条約は[[トルコ]]との[[セーヴル条約]]や[[イギリス委任統治領パレスチナ]]([[1920年]] - [[1948年]])につながっていった。[[1919年]]には{{仮リンク|ファイサル・ワイツマン合意|en|Faisal–Weizmann Agreement}}が調印され、パレスチナへのユダヤ人入植を促進させることで合意している。[[国際連盟]]の決議で設置されたイギリス委任統治領パレスチナで公用語のひとつは[[ヘブライ語]]になり、ハーバート・サミュエルは初代高等弁務官となった。
 
イスラエル建国以前の中東では、イスラム教徒とユダヤ教徒は共存してはいたが、しばしば大規模な反ユダヤ暴動が起きた。[[1920年]]7月の暴動(ユダヤ人216人死傷)、[[1921年]]の暴動があった。
 
[[1922年]]、[[イギリス委任統治領パレスチナ]]が成立。[[1925年]]、[[1926年]]の暴動、[[1929年]]には[[嘆きの壁事件]]がきっかけとなって[[8月23日]]には{{仮リンク|ヘブロン虐殺 (1929年)|en|1929 Hebron massacre|label=ヘブロン虐殺}}(ユダヤ人133人死亡、339人負傷、アラブ人439人死傷)があった。
 
[[1928年]]、[[ヨシフ・スターリン]]の[[社会主義]]民族政策により、[[アムール川]]沿岸の中ソ国境地帯に「[[ユダヤ自治州|ユダヤ民族区]]」が設置され、{{仮リンク|西ウクライナ|uk|Західна_Україна}}から{{仮リンク|西ベラルーシ|be|Заходняя Беларусь}}にまたがる「[[ルテニア]]」と呼ばれた地域、すなわち{{仮リンク|カルパティア・ルテニア|en|Carpathian Ruthenia|redirect=1}}([[カルパト・ウクライナ]])・[[ガリツィア]]([[ガリツィア・ロドメリア王国]])・[[モルダヴィア]]・[[ベッサラビア]]などの[[シュテットル]]から多数のユダヤ人が移住した。
 
社会主義的な枠組みの中でユダヤ人の文化的自治をめざすもので、[[イディッシュ語]]の学校や新聞が作られた。同時期の戦間期には、ガリツィアなどからの難民が[[ウィーン]]へも押し寄せ、[[イディッシュ語]]のコミュニティーを形成したことが知られている<ref>{{Cite book |和書 |author=メンデル・ノイグレッシェル|translator=野村真理|others=野村真理解説|title=イディッシュのウィーン |date=1997-10 |publisher=松籟社 |isbn=4-879-84192-7}}{{要ページ番号|date=2019-03-03}}</ref>。
 
====第二次世界大戦====
[[1933年]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]が政権を握ると、ドイツにおいてユダヤ人迫害政策は公的なものとなり、さまざまな扱いで圧迫されるようになった。[[1936年]]から[[1939年]]の[[パレスチナのアラブ反乱 (1936年 - 1939年)|パレスチナのアラブ反乱]]では、エルサレムでの暴動があった。
 
なお1936年の時点でエルサレムの人口は12万5,000人、うちユダヤ人が7万5,000人を占めていた{{Sfn|ニアイースト・リポート|1991|pp=41-43}}。[[1938年]][[11月9日]]、ドイツ全土で『[[水晶の夜|帝国水晶の夜]]』({{lang-de|Reichskristallnacht}})事件が発生し、その後ユダヤ人に対する迫害政策がさらに進展した。[[1939年]]、第二次世界大戦が勃発し、ナチスは占領地域におけるユダヤ人の隔離を開始した。[[ソ連]]はユダヤ人難民の[[ユダヤ自治州|ユダヤ自治区]]への流入を禁止した。 [[1940年]][[8月31日]]、[[杉原千畝]]が[[リトアニア]]の[[カウナス]]を脱出。杉原千畝は、7月からドイツ占領下のポーランドを脱出してきたユダヤ難民に「命のビザ」を発給したことで知られているが、1947年に責任をとらされ、依願退職した。
 
[[1941年]]、ソ連は[[ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国]]を廃止し、[[ヴォルガ・ドイツ人]]を[[シベリア]]や[[カザフスタン]]へ追放し、{{仮リンク|カザフスタンのドイツ人|en|Germans of Kazakhstan}}と呼ばれた。[[1941年]][[7月10日]]、[[イェドヴァブネ事件]]。[[1941年]][[9月6日]]、[[リトアニア]]の[[ヴィリニュス]]に[[ヴィリニュス・ゲットー]]が設置された。ナチスは当初隔離したユダヤ人をマダガスカル島などに追放する計画([[マダガスカル計画]])を立てていたが、その後[[絶滅収容所]]への収容・絶滅計画に方針を切り替えた。これらは'''[[ホロコースト]]'''と呼ばれる。
 
==== イスラエルの建国とパレスチナ問題 ====
{{Main|シオニズム|イスラエル|中東戦争|パレスチナ問題}}
[[ホロコースト]]の実態が西側諸国に伝わると、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設するという[[シオニズム]]がさかんになり、[[1945年]]にアメリカで{{仮リンク|ユダヤ人抵抗運動|en|Jewish Resistance Movement}}が組織された。
 
しかしこの運動はパレスチナに住んでいたアラブ人およびそれを同胞と見るアラブ諸国との軋轢を生み出した。[[1946年]]にはシオニズムを奉じるユダヤ系組織による[[キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件]]や[[イフード運動]]の指導者[[ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニー]]({{lang|en|Fawzi Darwish al-Husseini}})暗殺が起こった。[[1947年]][[11月29日]]、[[国際連合]]でアメリカとソ連などの支持を受けて『[[パレスチナ分割決議]](国連総会決議181号)』が採択されると、[[11月30日]]から{{仮リンク|パレスチナ内戦|en|1947–48 Civil War in Mandatory Palestine}}が始まり、[[1948年]]4月には[[エツェル]]による[[デイル・ヤシーン事件]]などが起こったが、同年5月14日の[[イスラエル国]]建国の[[イスラエル独立宣言]]が行われると、翌日の5月15日の[[第一次中東戦争]]につながっていった。{{仮リンク|全パレスチナ政府|en|All-Palestine Government}}が[[ガザ]]に設置され、[[アミーン・フサイニー]]が[[大統領]]となると、[[:en:Killings and massacres during the 1948 Palestine War|Killings and massacres during the 1948 Palestine War]]が多発した。[[1949年]]7月の[[休戦協定]]によってパレスチナ地域のうち、大部分をイスラエルが獲得。[[エジプト]]は[[ガザ地区]]を獲得し、[[ヨルダン]](1949年6月に[[トランスヨルダン]]から名称変更した)は[[エルサレムの旧市街とその城壁群|東エルサレム]]および[[ヨルダン川西岸地区]]を獲得した。
 
一方、寸土も獲得できなかった全パレスチナ政府が4か月で崩壊すると、[[1951年]]にアミーン・フサイニーは、親イスラエルとみなしたヨルダンの[[アブドゥッラー1世]]を暗殺した。
 
[[1952年]]に[[エジプト革命 (1952年)|エジプト革命]]が起こり、[[1953年]]にエジプト共和国が成立すると、第2代大統領[[ガマール・アブドゥン=ナーセル]]は[[アスワン・ハイ・ダム]]建設の協力をアメリカに求めた。しかし、[[1956年]]になって[[アメリカ合衆国]]国務長官の[[ジョン・フォスター・ダレス]]がエジプトへの協力に反対した{{efn2|この問題でダレスは、[[1956年]][[8月19日]]にロンドン会談で日本の[[重光葵]]外相にもソ連と[[北方地域|北方領土]]を二島返還で妥結するなら沖縄返還は無いと圧力をかけた。
 
当時の日本は、[[朝鮮戦争]]が[[1953年]]に休戦したことを受け、ソ連とも講和条約締結と北方領土の返還を協議していた。日本は[[1951年]]に[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]で[[単独講和]]路線を選択した後だったことから、ダレスの圧力を受け入れ、[[10月12日]]の[[鳩山一郎]]首相と[[ニキータ・フルシチョフ]]の首脳会談で、国交回復を先行させ、平和条約締結後に[[歯舞群島]]と[[色丹島]]を返還する前提で平和条約の交渉を行う事が合意された。その結果、[[10月19日]]の[[日ソ共同宣言]]で北方領土は返還されなかった。}}。
 
そのためナーセルは[[東西冷戦]]を利用してソ連側に接近し、さらに[[汎アラブ主義]]を掲げ、[[スエズ運河国有化宣言|スエズ運河国有化]]({{lang-en-short|Nationalisation of the Suez Canal}})を断行した。当時[[フランス]]は、[[アルジェリア戦争]]([[1954年]] - [[1962年]])で[[アルジェリア民族解放戦線]]をエジプト共和国が支援していると考えたため、英仏は第一次中東戦争でエジプトと敵対したイスラエルを支援する形で[[第二次中東戦争]]が勃発した。
 
[[アメリカ合衆国]]の[[アイゼンハワー]]大統領は、{{仮リンク|アラブ冷戦|en|Arab Cold War}}下にソ連が介入する事態を懸念し、[[平和のための結集決議]]で即時停戦を求める総会決議997を採択した。1957年3月16日にイスラエルは撤退し、エジプトはスエズ運河の国有化に成功した。ダレスの戦略は完全に裏目に出て、中東でのソ連の影響力は一気に高まり、第三次中東戦争につながった。
 
米国が[[ベトナム戦争]]で{{仮リンク|アラブ冷戦|en|Arab Cold War}}に手が回らなくなると、ソ連の[[KGB]]はイスラエルの[[イスラエル諜報特務庁|モサッド]]の諜報活動を逆手にとった。[[ゴラン高原]]におけるユダヤ人入植地の建設をめぐる紛争で、ソ連はエジプトとシリアを情報操作で開戦準備に誘導し、モサッドの入手する情報から先制攻撃を恐れたイスラエルは[[1967年]]に逆に先制攻撃を行い、[[第三次中東戦争]]を開始した。
 
第三次中東戦争は、イスラエル領土の拡張運動「{{仮リンク|大イスラエル運動|en|Movement for Greater Israel|label=大イスラエル構想}}」([[1967年]] - [[1976年]])が活発になった時期であることから、パレスチナ人およびアラブ人とユダヤ人入植者との対立がその政策の結果として建国以降一貫して引き起こされてきたと拡大解釈する立場もあらわれた。
 
1964年にアラブ連盟により[[パレスチナ解放機構]](PLO)が結成されていたが、1969年2月に第三次中東戦争で活躍した[[ファタハ]]の[[ヤーセル・アラファート]]が議長に就任すると、PLOが事実上のパレスチナ亡命政府と看做されるようになった。[[1970年]]に[[ガマール・アブドゥン=ナーセル]]が急死すると、[[アンワル・アッ=サーダート]]がエジプト大統領に就任した。サーダートは、ナーセルのイスラエル強硬路線を踏襲し、アラブ同士の結束を固めるために[[1971年]]9月にシリアとリビアとの[[アラブ共和国連邦]]を結成した。1972年4月には、[[1970年]]の[[ヨルダン内戦|ブラック・セプテンバー事件]]でPLOを追放していたヨルダンは国交を断絶された。一連の主導権争いにイスラエルが巻き込まれる形で、1973年10月の[[第四次中東戦争]]が勃発した。[[石油輸出国機構]](OPEC)は、イスラエル援助国に対して石油戦略を発動し、世界で[[オイルショック]]を引き起こした。
 
和平締結を模索する中で、サーダートはナーセルの反イスラエル反米路線からの転換を図った。[[1977年]]6月にサーダートがイスラエルへ[[メナヘム・ベギン]]首相を公式訪問し、[[1978年]]9月の[[キャンプ・デービッド合意]]はサーダートが単独で締結した。しかし、[[1981年]]10月にサーダートはエジプトの[[ジハード団]]によって暗殺された。
 
[[1987年]]に[[第1次インティファーダ]]が始まり、[[1993年]]にはイスラエルとPLOの[[オスロ合意]]によりパレスチナ自治政府が設立された。
 
==年表==
<!--<table border=1 bordercolor=blue>
<tr><td>[[ヘブライ人]] | [[ヤハウェ]]信仰</td></tr>
<tr><td>年表 - [[古代イスラエル]]
::[[イスラエル王国]]
::[[ユダ王国]]
[[聖書成立史]] | [[ユダヤ教]] | [[ユダヤ史関連人物一覧]]</td></tr>
<tr><td>[[メソポタミア地方のユダヤ教徒の歴史]] | [[ユダヤ教]]</td></tr>
<tr><td>[[ユダヤ人の歴史|ユダヤ教徒の歴史]](詳細)</td></tr>
<tr><td>[[イスラエルの歴史]] | [[レバント]] --><!--(考古学年表執筆予定)--><!-- --><!----><!--暫定テンプレートです-->
 
*[[313年]] - [[ミラノ勅令]]([[ローマ帝国]]で、これまで弾圧を受けていたキリスト教が公認される)
*[[392年]] - ローマ帝国が[[キリスト教]]以外の宗教を禁止。
*[[529年]] - [[ユスティニアヌス1世]]、[[アテネ]]の哲学院([[ギリシア哲学]])を閉鎖。
*[[622年]] - [[イスラム教]]が成立。
*[[6世紀]] - [[8世紀]]ごろ - 東ローマとササン朝が全面戦争。ユダヤ人の一部が大挙してアラビアに移住。新都市の建設に協力するが、イスラム教への改宗は拒絶した。そのため、短期間のあいだ迫害を受ける。
*[[7世紀]]以降 - イスラム教徒がイベリア半島に進出するに伴い、メソポタミア地方、シリア、小アジア、エジプト、そしてマグリブのユダヤ教徒がイベリア半島に移住([[セファルディム]]、[[ラディーノ語]]を参照)。
*[[10世紀]] - アシュケナジムがライン地方に定着(詳細は[[アシュケナジム]]、[[イディッシュ語]]、[[中欧のユダヤ教徒の歴史]]を参照)。
*[[11世紀]]
**[[十字軍]]、[[イスラム帝国]]分裂の結果、[[中東]]のユダヤ教徒が弾圧され、多くが[[ヴェネツィア]]に移住。
**カトリック教会がユダヤ教徒をほとんどの職業から追放。
***ユダヤ人は中世のヨーロッパ大陸でさまざまな商工農業に従事し、東方貿易の担い手でもあったが、教会法と世俗法による職業制限の結果、商業、特に貸金業などの[[金融]]業に従事する割合が増大した。教会法はキリスト教徒の利子つき貸借を禁じていたが、ユダヤ教は異教徒から利子を受け取ることを許しているためである(ただし、キリスト教会によって名目上あらゆる利子取得は非難されていたにもかかわらず、実際には聖職者や修道院さえも金銭貸借を行っていた)。
 
11 - 12世紀にイタリア商人が地中海貿易の覇権を握るとユダヤ人は遠隔地貿易から締め出され、貸金業に活路を見出した。13世紀頃から北イタリアを中心としてキリスト教徒の商人が大々的に金融業を営むようになると、金貸しはユダヤ人の独占市場ではなくなり、ユダヤ人は質屋などの消費者金融専門となった。こうした経済的社会状況を背景とした反ユダヤ感情が11世紀末ごろから芽生える。
**[[ポーランド王国]]によるユダヤ人[[移民]]の受け入れが本格化する。
*[[1246年]] - [[ミンダウガス]]、[[リトアニア大公国|リトアニア大公]]として即位。
*[[1264年]] - 「[[カリシュの法令]]」が発布され、これ以降ポーランドではユダヤ人の権利と安全が制度的に保障される。
*[[14世紀]]初め - [[ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ1世]]によってポーランド再統一。
*[[1386年]] - ポーランド、非キリスト教国であった[[リトアニア大公国]]から大公ヨガイラ([[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]])を国王に迎え入れ、リトアニアと連合([[ヤギェウォ朝]])。
*[[1453年]] - [[オスマン帝国軍]]、[[東ローマ帝国]]の首都[[コンスタンティノポリス]](現在の[[イスタンブール]])を陥落させる。[[オスマン帝国]]では、この後、ユダヤ難民を受け入れ、[[ヨーロッパ世界]]とは異なり、基本的には非ムスリムに対する差別を禁止する、国家による平等社会が整備された。
*[[15世紀]] - [[レコンキスタ]]の進展により[[スペイン]]のイスラム勢力がキリスト教勢力に追われ、イスラム教国に協力したとされたユダヤ教徒が弾圧される。一部はキリスト教に改宗し、[[1492年]]改宗を拒否したユダヤ人は追放され、多数が地中海周辺の都市に移住。改宗したユダヤ人は、スペインにおいては差別はなくならず、[[マラーノ]]と呼ばれ蔑まれた。
*[[1569年]] - [[ルブリン合同]]
*[[1648年]] - [[ボフダン・フメリニツキー]]([[ウクライナ・コサック]])の反乱
*[[1772年]]・[[1793年]]・[[1795年]] - [[ポーランド分割]]
*[[1786年]] - {{仮リンク|ユダヤ教徒居住区|en|Jewish Pale}}設置
*[[18世紀]]末 - [[フランス革命]]:ユダヤ教徒の権利向上の動きもあり、ユダヤ教徒への弾圧が弱まっていったが、逆に新反ユダヤ主義が芽生える面もあった。
**[[1789年]][[8月26日]] - [[人間と市民の権利の宣言]]
**1800年代 - [[ナポレオン戦争]]
*[[1881年]] - [[アレクサンドル3世]]即位。ユダヤ教徒弾圧始まる。
*[[1883年]] - ロシア、[[イディッシュ演劇]]の上演禁止([[オーストリア・ハンガリー帝国]]ではこのようなことはない)。
*19世紀末
**[[東ヨーロッパ|東欧]]で続く弾圧から逃げるため、東欧のユダヤ教徒が[[パレスチナ]](イスラエルの地)に移住し始める。[[ロスチャイルド家]]から移住の費用が補助されたといわれる。これが、のちのイスラエル建国へとつながる。[[テルアビブ]]の都市建設などが始まる。
**[[ドレフュス事件]]が起き、[[シオニズム]]が活発になる。フランス軍のユダヤ人大尉がスパイの冤罪を着せられた事件。
*[[1908年]]/[[1909年]]/[[1914年]] - [[イズレイル・ザングウィル]]、アメリカのアイデンティティに対し「メルティング・ポット」論(原型が溶かされてひとつになる)を唱える。
*[[1914年]] - [[ホレイス・カレン]](ユダヤ系)、アメリカのアイデンティティに対し「[[サラダボウル]]論」(それぞれの形の色と形を留めたままで共生する社会)を唱え、[[文化的多元主義]]を提案する。
*[[1918年]] - ポーランドが[[西ウクライナ人民共和国]]を武力で滅ぼし、東[[ガリツィア|ガリツィヤ]](ハルィチナー)をはじめとする一帯を[[領有]]。
*[[1930年代]] - 1933年の[[ナチ党の権力掌握]]により、ドイツにおいて[[人種主義]]に基づく反ユダヤ政策が実行される。
*[[第二次世界大戦]]期 - 反ユダヤ政策がドイツの占領地域に拡大し、ユダヤ人の隔離、強制収容が行われる。[[独ソ戦]]勃発以降にはヨーロッパからのユダヤ人種の根絶をはかる[[ホロコースト]]が行われ、600万人とも言われるユダヤ人が犠牲になったとされる。戦中、戦後の時期においてヨーロッパを離れパレスチナなどに移住するユダヤ人が発生。
*[[1948年]][[5月14日]] - [[国連決議181号]]に基づき[[イスラエル]]の独立宣言。
*[[1965年]] - [[多文化主義]]が提唱される。
*[[1990年代]] - [[ソビエト連邦]]の崩壊によりソ連に住んでいたユダヤ人が大量にイスラエルに移住。
<!--{{main|ユダヤ人の歴史}}-->
 
===反ユダヤ主義===
{{main|反ユダヤ主義}}
ユダヤ人の歴史の要素の一面として、時には迫害・襲撃・追放をも含んだ[[反ユダヤ主義]]ということが言われるが、これはあくまで極一面であって、[[ディアスポラ]]の地で2000年、地域によっては1000年以上の隣人として共存・共発展してきた面もあり、たとえば[[キリスト教]]では親ユダヤの宗派も存在する。
 
宗教弾圧を受けた面もあれば、セム的[[一神教]]・[[アブラハムの宗教]]の本流としての「[[啓典の民]]」{{efn2|{{lang-ar|Ahl al-Kitab}}}}、「聖なる民 ‘am Qodeš{{efn2|[[マルティン・ブーバー]]は「聖に<u>する</u>民」と訳している。[[レビ記]]11章45節を参照。}}」としての面もある。[[イスラム世界]]においては、貢納を行えば信仰は許されたが、メルラーと呼ばれる[[ゲットー]]も存在していた。
 
これを編み出したのは[[ハルーン・アル・ラシード]]であった。また反ユダヤ暴動もしばしば起きていた{{Sfn|ニアイースト・リポート|1991|p=200}}。
 
==博物館==
*[[ユダヤ博物館]]がある都市…[[ロンドン]]、[[ベルリン]]、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]、[[ウィーン]]、[[ヴィリニュス]]、[[プラハ]]、[[ニューヨーク]]
*[[サバタイ・ツヴィ博物館]]…トルコのスミルナ(イズミル)に建設予定(2006年時点)
 
==文化遺産==
ユダヤ人関連の文化遺産として以下がある。
*[[イスラエル]]
**[[エルサレム|東エルサレム]](イスラエル管理地域)旧市街と城壁([[1981年]]世界遺産登録)
**[[マサダ]]([[2001年]]世界遺産登録)
**[[アッコ]]旧市街(2001年世界遺産登録)
**[[テルアビブの白い都市|テルアビブの白い都市 - 近代建築運動]]([[2003年]]世界遺産登録)
*[[スペイン]]
**[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]旧市街([[1985年]][[世界遺産]]登録)
**[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]歴史地区([[1984年]]/[[1994年]]世界遺産登録)
**[[トレド]]旧市街([[1986年]]世界遺産登録)
*[[チェコ]]
**[[プラハ]]歴史地区 - [[プラハの旧ユダヤ人墓地|旧ユダヤ人墓地]]&新旧[[シナゴーグ]]([[1992年]]世界遺産登録)
**[[トシェビーチ]]のユダヤ人地区と[[聖プロコピウス大聖堂]](2003年世界遺産登録)
*[[イエメン]]
**[[サナア]]旧市街(1986年世界遺産登録) - ユダヤ人の先祖[[セム]]が作ったとされ、[[古代イスラエル|イスラエル]]と関係のあった[[シバ王国]]があったとされる。
**[[ザビード]]歴史地区([[1993年]]世界遺産登録)
*[[アフガニスタン]] - [[ジャームのミナレット]] - ユダヤ人墓地
*[[ルーマニア]] - [[ブカレスト]]の[[国立ユダヤ劇場]]
*[[オマーン]] - [[乳香]]の交易路 (The Frankinsence Trail) ([[2000年]])
 
== ユダヤ人の例 ==
分野を問わず非常に多く、英語版の[[:en: Lists of Jews]]は分野別・国別の「一覧の一覧」となっている。
 
=== 科学者 ===
*[[アルベルト・アインシュタイン]](物理学者)
*[[ロバート・オッペンハイマー]](ユダヤ系アメリカ人物理学者)
*[[ジョン・フォン・ノイマン]](ユダヤ系ハンガリー人数学者)
 
=== 音楽家 ===
;クラシック音楽
{{Div col|cols=2}}
*[[ウラディーミル・アシュケナージ]]
*[[エリアフ・インバル]]
*[[オットー・クレンペラー]]
*[[レナード・バーンスタイン]]
*[[ユーディ・メニューイン]]
*[[アルトゥール・ルービンシュタイン]]
*[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]]
*[[ブルーノ・ワルター]]
*[[アイザック・スターン]]
*[[イツァーク・パールマン]]
*[[ダニエル・バレンボイム]]
*[[カレル・アンチェル]]
*[[ゲオルク・ショルティ]]
*[[アンドレ・プレヴィン]]
*[[ジェームズ・レヴァイン]]
*[[ギドン・クレーメル]]
{{Div col end}}
 
;大衆音楽
{{Div col|cols=2}}
*[[ジョージ・ガーシュウィン]]
*[[ベニー・グッドマン]]
*[[スタン・ゲッツ]]
*[[ボブ・ディラン]]
*[[キャロル・キング]]
*[[フィル・スペクター]]
*[[レナード・コーエン]]
*[[ルー・リード]]
*[[ポール・サイモン]]
*[[アート・ガーファンクル]]
*[[セルジュ・ゲンスブール]]
*[[バート・バカラック]]
*[[ローラ・ニーロ]]
*[[ジャニス・イアン]]
*[[フィービ・スノウ]]
*[[ハル・ブレイン]]
*[[ロビー・クリーガー]]
*[[ビリー・ジョエル]]
*[[デイヴィッド・リー・ロス]]([[ヴァン・ヘイレン]])
*[[アルフレッド・ライオン]]
*[[ポール・スタンレー(KISS)]]
*[[ジーン・シモンズ(KISS)]]
{{Div col end}}
 
===日本と関わりの深いユダヤ人===
*[[バーナード・ジャン・ベッテルハイム]] - 1846年から8年間沖縄に滞在したプロテスタント系キリスト教伝道師。
*[[アーサー・ウェイリー]] - [[源氏物語]]、能などを英訳したイギリスのユダヤ人。
*[[ブルーノ・タウト]] - [[桂離宮]]など日本建築の美しさを欧米に伝えたユダヤ系ドイツ人。
*[[ヤン・レッツェル]] - [[広島県]]の広島県物産陳列館(のちの[[原爆ドーム]])などを設計したユダヤ系チェコ人。
*[[ジェイコブ・シフ]] - [[日露戦争]]の際、日本の[[戦時国債]]に協力したドイツ生まれのユダヤ系アメリカ人。
*[[アナトリー・ヤコヴレヴィチ・グートマン]] - [[尼港事件]]の詳細を日本に伝えたユダヤ系の[[白系ロシア人]]のジャーナリスト。
*[[ゲンリフ・リュシコフ]] - ソ連[[内務人民委員部]](NKVD)の極東におけるチーフであり、[[大粛清]]時に[[満州国]]へと亡命して日本軍に協力したユダヤ系ソ連人。
*[[ハリー・ホワイト]] - [[ハル・ノート]]を書いたリトアニア系ユダヤ人のアメリカ外交官。
*[[チャールズ・ケーディス]] - [[日本国憲法]]執筆者。
*[[ハーバート・ノーマン]] - 日本史研究者。
*[[エドワード・サイデンステッカー]] - 日本文学翻訳家。
*[[ルティ・ジョスコビッツ]] - 著述家。
*[[スティーヴン・スピルバーグ]] - 映画監督。
*[[エリ・コーヘン]] - 元駐日イスラエル大使。
*[[レオ・シロタ]] - ピアニスト、当時高い評価を西欧で得ていたが、来日し多くの日本人音楽家を育てた。
*[[ベアテ・シロタ・ゴードン]] - [[レオ・シロタ]]の娘で、日本国憲法の人権条項作成に携わり、女性の権利の明記に尽力した。日本国憲法の作成に携わった足跡が『ベアテの贈りもの』として2005年に映画化された。
*[[ミハエル・コーガン]] - ユダヤ系ウクライナ人の[[タイトー]]創業者。
 
===日本のメディアに登場するユダヤ人===
{{see also|日本のユダヤ人}}
*[[ロバート・アラン・フェルドマン]]
*[[ピーター・フランクル]] - 数学者。
*[[ピーター・バラカン]]
*[[デーブ・スペクター]] - コメンテーター。
 
==関連書籍==
<!-- 本記事の出典として使用されている文献は、この節ではなく「参考文献」節に載せて下さい。 併せて脚注も設置してください。-->
===初歩的入門書・紹介書===
*『わかるユダヤ学』(手島勲矢 編著、[[日本実業出版社]]、2002年9月、ISBN 4-534-03449-0)
*『図解ユダヤ社会のしくみ 現代ユダヤ人の本当の姿がここにある』(滝川義人 著、[[中経出版]]、2001年3月、ISBN 4-8061-1442-1)
*『ユダヤを知る事典』(滝川義人 著、[[東京堂出版]]、1994年04月、ISBN 4-490-10363-8)
<!--*『面白いほどよくわかるユダヤ世界のすべて 国際社会に影響力を持つユダヤパワーの秘密』(中見利男 著、[[日本文芸社]]、2003年4月、ISBN 4-537-25141-7)-->
*『ユダヤ人〈1〉ユダヤ人とは何か』([[広河隆一]](編集)、 [[パレスチナ・ユダヤ人問題研究会]](編集)、三友社出版 (1985/12) ASIN:B000J6R5A8 )
*『イスラエル VS. アラブ 誤解と真実』([[ニアイースト・リポート]]編 / 滝川義人 訳 / ミルトス / ISBN 4-89586-114-7 / 1991年4月)
*『私のなかの「ユダヤ人」』([[ルティ・ジョスコビッツ]]著、 現代企画室;増補新版 (2007/08) ISBN 4773807083、ISBN 978-4773807080 )
*『イスラエル』([[臼杵陽]]著、岩波書店 (2009/4/21) ISBN 4004311829、 ISBN 978-4004311829 )
*大澤武男 『ユダヤ人とドイツ』 講談社〈講談社現代新書〉、1991年。
 
====ユダヤ教====
*『現代人のためのユダヤ教入門』([[デニス・プレーガー]][[デニス・プレガー|<sup>*</sup>]] [[:en:Dennis Prager|Dennis Prager]]、[[ジョーゼフ・テルシュキン]] [[:en:Joseph Telushkin|Joseph Telushkin]] 著、松宮克昌・松江伊佐子 訳、[[ミルトス]]、ISBN 489586118X)- ユダヤ教への入門・再入門書。ユダヤ教の本質について論じている。
*『ユダヤ教聖典入門 ― トーラーからカバラーまで』(R・C・ムーサフ・アンドリーセ 著、市川裕 訳、[[教文館]]、ISBN 4764262622)
 
===アシュケナジム社会===
*中央大学人文科学研究所研究叢書 29『ツァロートの道 ユダヤ歴史・文化研究』([[中央大学]]出版部、2002年3月、ISBN 4-8057-4207-0)
*『彼ら抜きでいられるか 二十世紀ドイツ・ユダヤ精神史の肖像』(ハンス・ユルゲン・シュルツ 編、山下公子・他 訳、[[新曜社]]、2004年8月、ISBN 4-7885-0905-9)
*『表現主義論争とユートピア』(船戸満之 著、情況出版、2002年5月、ISBN 4-915252-63-9)
*『パリ・貧困と街路の詩学 1930年代外国人芸術家たち』(今橋映子 著、都市出版、1998年5月、ISBN 4-924831-68-9)
*『フロイトのウィーン』([[ブルーノ・ベッテルハイム]] 著、[[森泉弘次]] 訳、みすず書房、1992年3月、ISBN 4-622-03057-8)
*平凡社ライブラリー 386『ウィトゲンシュタインのウィーン』([[スティーヴン・トゥールミン|S.トゥールミン]]&A.ジャニク 著、[[藤村龍雄|藤村竜雄]] 訳、[[平凡社]]、2001年3月、ISBN 4-582-76386-3)
*りぶらりあ選書『取り消された関係 ドイツ人とユダヤ人』(ハンス・マイヤー 著、宇京早苗 訳、[[法政大学]]出版局、2003年8月、ISBN 4-588-02216-4)
*叢書・ウニベルシタス 510『ユダヤ人とドイツ 「ユダヤ・ドイツの共生」からアウシュヴィッツの記憶まで』([[エンツォ・トラヴェルソ]] 著、宇京頼三 訳、[[法政大学]]出版局、1996年2月、ISBN 4-588-00510-3)
*[[中公新書]]『ユダヤ・エリート―アメリカへ渡った東方ユダヤ人』([[鈴木輝二]] 著、[[中央公論新社]]、2003年3月、ISBN 4121016882)
 
===ユダヤ人の芸術===
====イディッシュ文学====
{{main|イディッシュ文化}}
*『ティビエおやじと娘たち』([[ショーレム・アレイヘム|ショーロム・アレイヘム]]著 / 南川貞治 注釈、[[研究社出版]]、1983年)
*『{{仮リンク|牛乳屋テヴィエ|en|Tevye}}』([[ショーレム・アレイヘム]]著)
*『ユダヤ人たち』([[ショーレム・アレイヘム|シャロム・アレイヘム]]著 / 木島始 江田阿希子 訳、[[思潮社]]、1980年10月)
*『[[屋根の上のバイオリン弾き]]』([[ショーレム・アレイヘム|ショラム・アレイヘム]]著 / 南川貞治 訳、[[早川書房]]、1976年)
*『悔悟者』([[アイザック・バシェヴィス・シンガー|アイザック・B・シンガー]]著 / 大崎ふみ子 訳、[[吉夏社]]、2003年12月、ISBN 4-907758-11-1)
 
====ドイツ文学====
*『[[賢者ナータン]]』([[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]] 著 / [[篠田英雄]]訳、[[岩波書店]](岩波文庫)、1978年、ISBN 4-00-324042-1)
*『ユダヤ人の生活 マゾッホ短編小説集』(L・v・[[ザッハー=マゾッホ]] / 中沢英雄 訳、[[柏書房]]、1994年9月、ISBN 4-7601-1120-4)
*『[[果てしなき逃走]]』([[ヨーゼフ・ロート]]著)
*『[[ラデツキー行進曲 (小説)|ラデツキー行進曲]]』([[ヨーゼフ・ロート]]著)
 
====アメリカ文学====
*[[E・L・カニグズバーグ]]作品(児童文学):[http://www.kyobunkwan.co.jp/Narunia/LIB04.htm カニグズバーグ作品]
**『魔女ジェニファとわたし ベーグル・チームの作戦(カニグズバーグ作品集 2)』(松永ふみ子 訳、[[岩波書店]]、2002年1月、ISBN 4-00-115592-3)
*創元推理文庫 282-01『水の戒律』([[フェイ・ケラーマン]] 著 / 高橋恭美子 訳、[[東京創元社]]、1993年4月、ISBN 4-488-28201-6)
 
===ユダヤ人の精神・生活関連===
====哲学関連====
*『ブーバーに学ぶ 「他者」と本当にわかり合うための30章』(斉藤啓一 著、[[日本教文社]]、2003年12月、ISBN 4-531-06389-9)
*『トーラーの知恵 現代を生きるためのユダヤ人の聖書観』(ピンハス・ペリー 著 / 手島勲矢・上野正 訳、[[ミルトス]]、1988年6月、ISBN 4-89586-102-3)
*『なるほど!ユダヤの格言・ユダヤの知恵』(エスカルゴ・ブックス / 滝川義人 著、日本実業出版社、1995年8月、ISBN 4-534-02364-2)
 
===教養関連===
*『1人の母親は100人の教師にまさる ユダヤの伝統教育と英才教育』(ルツ・アラジ 著 / 滝川義人 訳、[[プロスパー企画]]、2000年4月、ISBN 4-938695-40-5)
*『子どもが伸びるユダヤ式教育』(アシェル・ナイム 著 / [[河合一充]] 訳、ミルトス、2000年7月、ISBN 4-89586-142-2)
*『ユダヤ人が語った親バカ教育のレシピ』(アンドリュー・J・サター ユキコ・サター 著、[[インデックス・コミュニケーションズ]]、2006年3月、ISBN 4-7573-0363-7)
 
===その他===
*『にせユダヤ人と日本人』([[浅見定雄]] 著、[[朝日新聞社]]、1983年12月、ISBN 4-02-255090-2)
*『にせユダヤ人と日本人』(朝日文庫、1986年12月、ISBN 4-02-260416-6)
*『ユダヤ人の脅威―アメリカ軍の反ユダヤ主義』(ジョーゼフ・W・ベンダースキー著 / 佐野誠 樋上千寿 関根真保 山田皓一 訳、風行社、2003年8月、ISBN 4-938662-60-4)
*『ロスト・ラゲッジ―エルサレムのかたすみで』(大桑千花 著、而立書房、2006年12月、ISBN 978-4880593364)
*『ユダヤ移民のニューヨーク 移民の生活と労働の世界』(野村達朗 著、[[山川出版社]]、1995年10月、ISBN 4-634-48090-5)
*『ニューヨーク知識人 ユダヤ的知性とアメリカ文化』(堀邦維 著、[[彩流社]]、2000年6月、ISBN 4-88202-649-X)
*『ショアーの歴史 ユダヤ民族排斥の計画と実行』(ジョルジュ・ベンスサン著 / 吉田恒雄訳、[[白水社]]([[文庫クセジュ]])、2013年8月、ISBN 978-4-560-50982-1)
*[http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/tandai/kiyou/No.37/045-067_Nakata.pdf  見えないユダヤ人―半世紀後に読む『ロリータ』―] 中田晶子、南山大学紀要第37号、2009年
 
==ユダヤ関連の映画==
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*[[しあわせ色のルビー]] [http://www.ryokojin.co.jp/tabicine/backnumber/apriceaboverubies.html (しあわせ色のルビー)]
*[[太陽の雫]] ([[サボー・イシュトヴァーン]]監督)
*[[ザ・ロイヤル・テネンバウムズ]]
*[[ライフ・イズ・ビューティフル]]
*[[戦場のピアニスト]]
*[[ベニイ・グッドマン物語]]
*[[紳士協定 (映画)]]
*[[シンドラーのリスト]]
*[[戦火の奇跡 ユダヤを救った男]]
*[[栄光への脱出]]
*[[巨大なる戦場]]
*[[ブルーノ (映画)]]
*[[ミート・ザ・ペアレンツ]]シリーズ
*[[ブラックブック]]
*[[耳に残るは君の歌声]]
*[[十戒 (映画)]]
*[[杉原千畝 スギハラチウネ]]
*[[ジョジョ・ラビット]]
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==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
==参考文献==
* {{Cite book |和書 |author = [[内田樹]] |title = 私家版・ユダヤ文化論 |publisher = 文藝春秋 |series = 文春文庫 |year = 2006 |month = |ref =内田樹2006}}
* {{Cite book |和書|author=大澤武男|title=ユダヤ人とドイツ|publisher= 講談社|series=講談社現代新書|year=1991|month=|ref= harv}}
* {{Cite book |和書|author=大澤武男|title=ユダヤ人ゲットー|publisher= 講談社|series=講談社現代新書 |date=1996-11 |ref={{SfnRef|大澤|1996}} }}
* {{Cite book |和書|author=関哲行|title=スペインのユダヤ人|publisher=山川出版社|series=世界史リブレット|date=2003-04 |ref={{SfnRef|関|2003}} }}
*{{Cite book |和書|title=イスラエルvs.アラブ 誤解と真実 |editor=[[ニアイースト・リポート]] |translator= 滝川義人 |publisher=ミルトス |isbn=4-89586-114-7 |date=1991-04 |ref={{SfnRef|ニアイースト・リポート|1991}} }}
*{{Cite journal|和書|authorlink=南利明 (法学者) |author=南利明 |title=民族共同体と法(17) :NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制|date=1994-11 |publisher=[[静岡大学]] |journal=静岡大学法経研究|volume=43(3),|naid=40003480473|pages=31-69 |ref={{SfnRef|南|1994}} }}
*シュロモー・サンド『ユダヤ人の起源』
 
==関連項目==
{{Div col|cols=3}}
*[[カイク]]
*[[ユダヤ教]]
*[[ユダヤ関連用語一覧]]
*[[ユダヤ教史関連人物一覧]]
*[[ユダヤの神話]]
*[[ヘブライ聖書]]
*[[タルムード]]
*[[613のミツワー]]
*[[シナゴーグ]]
*[[ラビ・ユダヤ教]](ラビ的ユダヤ教)
*[[ユダヤ教への改宗者の一覧]]
*[[ヘブライ語]]と[[ヘブライ文字]]
*[[ユダヤ諸語]]
*[[シオニズム]]
*[[選民としてのユダヤ人]]
*[[イスラエル (民族)|イスラエル]]
**[[古代イスラエル]]
**[[イスラエルの失われた十氏族]]
*[[日ユ同祖論]]
*[[ディアスポラ]]
**[[アシュケナジム]]
**[[セファルディム]]
**[[ミズラヒム]]
***[[イエフディ]]
**[[反ユダヤ主義]]
**[[ホロコースト]]
**[[オスカー・シンドラー]]
**[[杉原千畝]]
***[[反日感情]]
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;ユダヤ人の一覧
{{Div col|cols=3}}
* {{仮リンク|北ヨーロッパのユダヤ人の一覧|en|List of North European Jews}}
* {{仮リンク|西ヨーロッパのユダヤ人の一覧|en|List of West European Jews}}
* {{仮リンク|東ヨーロッパのユダヤ人の一覧|en|List of East European Jews}}
* {{仮リンク|東南ヨーロッパのユダヤ人の一覧|en|List of South-East European Jews}}
** {{仮リンク|ロシア帝国ならびソビエト連邦の出身のユダヤ人の一覧|en|List of Jews born in the former Russian Empire}}
** {{仮リンク|チェコおよびスロバキア出身のユダヤ人の一覧|en|List of Czech and Slovak Jews}}
** {{仮リンク|ハンガリー系ユダヤ人の一覧|en|List of Hungarian Jews}}
** {{仮リンク|ポーランド系ユダヤ人の一覧|en|List of Polish Jews}}
** {{仮リンク|ルーマニア系ユダヤ人の一覧|en|List of Romanian Jews}}
* {{仮リンク|サハラ以南のアフリカ出身のユダヤ人の一覧|en|List of Jews from Sub-Saharan Africa}}
* {{仮リンク|アラブ諸国の出身のユダヤ人の一覧|en|List of Jews from the Arab world}}
* {{仮リンク|ラテンアメリカ系ユダヤ人の一覧|en|List of Latin American Jews}}
** {{仮リンク|アルゼンチン系ユダヤ人の一覧|en|List of Argentine Jews}}
** {{仮リンク|チリ系ユダヤ人の一覧|en|List of Chilean Jews}}
* {{仮リンク|カリブ海域出身のユダヤ人の一覧|en|List of Caribbean Jews}}
* {{仮リンク|オセアニアのユダヤ人の一覧|en|List of Oceanian Jews}}
** {{仮リンク|オーストラリア系ユダヤ人の一覧|en|Australian Jews}}
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==外部リンク==
{{commonscat|Jews}}
*[http://d.hatena.ne.jp/believer777/ 聖書とユダヤ人]{{リンク切れ|date=2019年3月3日 (日) 05:19 (UTC)}}
*[https://www.bh.org.il/ MUSEUM OF THE JEWISH PEOPLE](英語・ヘブライ語)
*[https://www.alljudaica.com/Default.asp ALLJUDAICA.COM](英語)- ユダヤ教・ユダヤ人関係のショッピング
*[http://www.jtsa.edu/library/exhib/costume/index.html CULTURE AND COSTUME]{{リンク切れ|date=2019年3月3日 (日) 05:19 (UTC)}}(英語) - ユダヤ教徒の衣装。アルムスハイムのヨハネス・シュニッツァーの版画もあり。
 
===アシュケナジム社会===
*[http://polish-jewish-heritage.org/ The Canadian Foundation of Polish-Jewish Heritage](ポーランド語・英語)
*[http://www.eilatgordinlevitan.com/vilna/vilna.html Vilna Site](英語)- リトアニアのユダヤ教徒社会の写真集
*[http://www-english.tamu.edu/pers/fac/myers/ D.G.Myers]{{リンク切れ|date=2019年3月3日 (日) 05:19 (UTC)}}(英語)- テキサス大学の教授のページ
*[https://www.scarsdalemura-kara.com/yudayasaijiki.htm ユダヤ歳時記](ユダヤ教に改宗しニューヨークに在住する一日本女性のサイト)
{{Authority control}}
 
{{DEFAULTSORT:ゆたやしん}}
[[Category:ユダヤ人|*]]
[[Category:ユダヤ教]]
[[Category:地域別の民族]]
[[Category:アジアの民族]]