「三井八郎右衛門」の版間の差分

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* 11代 - 三井高雅(新町家5代)。文化12年(1815)、八郎右衛門を襲名<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=7850&query=&class=&d=all&page=11 文化12年(1815)]三井『三井事業史. 本篇 第1巻』(1980.09)</ref>
* 12代 - 三井高満(高祐の子で新町家6代)。文政12年(1829)、高雅没により八郎右衛門を襲名<ref name=mitsui12>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=7850&query=&class=&d=all&page=12 文政12年(1829)、天保8年(1837)]三井『三井事業史. 本篇 第1巻』(1980.09)</ref>
* 13代 - [[三井高福]](三井高就の子で北家8代)。天保8年(1837)、八郎右衛門を襲名<ref name=mitsui12/>。
* 14代 - [[三井高朗]](高福長男で北家9代)。明治11年(1878)、八郎右衛門を襲名<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=7860&query=&class=&d=all&page=6 明治11年(1878)]三井『三井事業史. 本篇 第2巻』(1980.09)</ref>
* 15代 - [[三井高棟]](高福八男で北家10代)。明治18年(1885)、八郎右衛門を襲名<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=7860&query=&class=&d=all&page=7 明治18年(1885)]三井『三井事業史. 本篇 第2巻』(1980.09)</ref>
 
== 初代高平 ==
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== 10代高棟 ==
[[File:Takamine Mitsui.jpg|thumb|100px|三井高棟]]
'''三井 高棟'''(みつい たかみね、[[安政]]4年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]([[1857年]][[2月8日]]) - [[昭和]]23年([[1948年]])[[2月9日]])は、三井家10代当主。趣味人として知られ、[[1906年]]には、麻布区今井町(現[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[六本木]])に大邸宅の「今井町邸」を建設。約1万3,500坪の敷地内には[[能舞台]]や庭園、テニスコートなどが設けられたほか、大磯の別邸には後に[[国宝]]となる[[茶室]]「[[如庵]]」が移築された。[[1922年]]には[[宮内庁]]からの依頼で[[英国]]皇太子を迎え、晩餐会や能観賞などで皇太子一行を接待した。[[1933年]]に高棟の隠居に伴い今井町邸は嗣子である第11代当主の高公へと受け継がれたが、[[1945年]]、戦災で焼失した<ref>[http://www.mitsuipr.com/about/facility/hontei.html 「三井八郎右衞門邸」三井広報委員会]</ref><ref>[http://www.oyama-ct.ac.jp/tosyo/kiyou/kiyou39/022%20okutomi.pdf 「今井町三井邸の能舞台に関する考察」奥冨利幸]</ref>。[[三井記念病院|三井慈善病院]]、[[若葉会幼稚園]]創立。茶人[[藪内節庵]]に師事し、如庵の購入のほか、[[山縣有朋]]別邸の「小淘庵(こゆるぎあん)」を購入、そのほか[[坂本復経]]による[[鍋島直大]]邸も移築して三井家拝島別邸とした。高棟が[[ジョサイヤ・コンドル]]に発注した[[綱町三井倶楽部]]は三田に現存する。妻に[[前田利聲]]の娘・苞子。娘たちは三井伊皿子家当主三井高長、侯爵[[中御門経恭]]、男爵[[鷹司信熙]]、子爵[[高辻正長]]([[高辻修長]]孫)の妻となった。四女の[[三井礼子]]は三井永坂町家当主三井高篤([[三井高泰]]長男)に嫁いだが離婚し、[[渡部義通]]と再婚した。孫(娘と高長の子)の博子は[[豊田章一郎]]の妻となった<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKDZO69567920Y4A400C1BC8000/ 豊田章一郎(9)結婚・入社 父の道を追いトヨタへ 三井伊皿子家の3女を妻に]日本経済新聞 朝刊2014/4/9「私の履歴書」</ref>。
 
== 11代高公 ==
'''三井 高公'''(みつい たかきみ、[[明治]]28年([[1895年]])[[8月3日]] - [[平成]]4年([[1992年]])[[11月13日]])は三井家11代当主。
 
敗戦後の[[財閥解体]]で三井系各社への支配権を失った後は、父・高棟が創設した幼稚園、[[若葉会幼稚園]]を終生にわたって経営した。また、東京都港区[[西麻布]](旧・麻布笄町)にあった総領家三井八郎右衛門高公邸(1952年築)は、東京都[[小金井市]]にある[[江戸東京たてもの園]]に移築され、一般公開されている。夫人の鋹子(としこ・1901年-1976年)は旧[[福井藩]]主・[[越前松平家]]第18代当主・[[松平康荘]]の長女。三男・公乗の岳父に[[浅野八郎]]。四男・之乗の岳父に林友春([[林博太郎]]の子)。長女・久子は浅野久弥(浅野八郎次男)の妻
 
自動車愛好家としても知られ、第二次世界大戦前は[[ベントレー]]・[[イスパノ・スイザ]]、[[ブガッティ]]、[[ランチア]]などヨーロッパの高級車やスポーツカーを常時10台以上所有し、90歳代になっても[[ベントレー・Tシリーズ|ベントレー・Tタイプ]]を自ら運転していた。