「イースタン航空401便墜落事故」の版間の差分

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'''イースタン航空401便墜落事故'''(イースタンこうくう401びんついらくじこ、{{lang-en-short|''' Eastern Air Lines Flight 401'''}})は、[[1972年]][[12月29日]]に[[アメリカ合衆国]][[フロリダ州]]の[[エバーグレーズ]]で起きた[[航空事故]]である。
 
[[イースタン航空]]の[[ロッキード L-1011 トライスター|ロッキードL-1011「トライスター」]]が[[マイアミ国際空港]]へ着陸するため[[降着装置]]を下ろしたところ、前脚がロックされたことを示す表示灯が点灯しなかった。進入を中断して[[自動操縦装置]]で空港付近を旋回し、前脚の状態を確認することにした。その際に機長が意図せず[[操縦桿|操縦輪]]に力をかけたことで自動操縦の高度保持機能が解除され、緩やかな降下が始まった。操縦室の全員が前脚の問題に集中してしまい、誰も飛行状態を監視しなかっい状況が生じた。その結果、手遅れになるまで誰も降下に気付かず、そのまま湿地帯に墜落した。搭乗者176名中101名が死亡した。
 
再発防止策として危険な高度の航空機に管制官が警告できるように[[最低安全高度警報]] (MSAW) が開発された。また、本事故以前の[[CFIT]]事故の教訓と合わせて[[対地接近警報装置]] (GPWS) の開発が促された。さらに、本事故と類似の[[ヒューマンファクター|人的要因]]が関わる事故が続いたことで[[クルー・リソース・マネジメント|CRM]]{{efn|name=CRM}}が提唱されることになった。
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イースタン航空401便(以下、EA401便)は、[[ジョン・F・ケネディ国際空港]]発、[[マイアミ国際空港]]行きの定期旅客便だった{{sfn|加藤|2001|pp=98–99}}{{sfn|NTSB|1973|p=3}}。
 
1972年12月29日のEA401便は、[[ロッキード L1011 トライスター|ロッキードL-1011]]型機「トライスター」で運航された{{sfn|加藤|2001|p=97}}。トライスターは、この年に就航開始したばかり新鋭機で{{sfn|加藤|2001|p=97}}、左右の主翼下と機体尾部にそれぞれ1発ずつ、計3発の[[ターボファンエンジン]]を備えた[[ワイドボディ機|ワイドボディ旅客機]]である<ref>{{Citation |和書 |title=3発機リスペクト : TRIJET STORY. |publisher=イカロス出版 |year=2015 |series=イカロスMOOK |isbn=978-4-8022-0079-0}}</ref>。使用機材の[[機体記号]]は「N310EA」だった{{sfn|NTSB|1973|p=30}}。この飛行機は同年8月に[[イースタン航空]]に納入され、事故までの飛行時間は936時間、飛行回数は502回だった{{sfn|NTSB|1973|p=30}}。
 
EA401便の運航乗務員は[[機長]]、[[副操縦士]](ファースト・オフィサー)、[[航空機関士]](セカンド・オフィサー)の3名だった{{sfn|加藤|2001|p=99}}{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。

機長は55歳で、1940年にイースタン航空に入社した{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。1942年に[[旅客機]]の乗務資格を取得し、1951年に機長に昇格した{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。複数機種の乗務資格を経て、1972年の春から夏にかけてトライスターの乗務資格を取得した{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。彼は総飛行時間が29,700時間というベテランパイロットで{{sfn|柳田|1975|p=127}}、トライスターでの飛行時間は280時間だった{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。
 
副操縦士は39歳で、[[アメリカ空軍]]での経験を経て1959年にイースタン航空に入社した{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。当初は航空機関士として乗務し、1971年12月に副操縦士となった{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。翌1972年にトライスターへの転換訓練を受けて6月に完了した{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。総飛行時間は5,800時間、トライスターでの飛行時間は306時間だった{{sfn|NTSB|1973|pp=27–28}}。
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着陸のため機長が[[降着装置]]を下ろす操作をしたところ、前脚が下げ位置でロックされたことを示す表示灯が点灯しなかった{{sfn|遠藤|2019|p=165}}{{sfn|柳田|1975|pp=114–115}}。表示灯が点かない原因として考えられるのは、脚が正常に下りていないか、表示灯が故障したかのいずれかである{{sfn|オーウェン|2003|p=169}}。機長は脚下げ操作をやり直したが、表示灯はつかなかった{{sfn|柳田|1975|pp=114–115}}。
 
23時34分05秒、機長はマイアミ空港の[[管制塔]](タワー)を呼び出し、前脚の表示灯が点かないため旋回する必要がある旨を伝えた{{sfn|加藤|2001|p=100}}{{sfn|柳田|1975|p=115}}{{sfn|NTSB|1973|p=3}}。タワーは了解し、高度20002,000[[フィート]](約610メートル)に上昇して[[進入・ターミナルレーダー管制|進入管制]](アプローチ・コントロール)に無線周波数を合わせるようEA401便に指示した{{sfn|加藤|2001|p=100}}。EA401便はこれを了承し、上昇して空港上空を通過した{{sfn|加藤|2001|p=101}}{{sfn|NTSB|1973|p=37}}。
 
=== 周回コースへ ===
[[File:N310EA.svg|thumb|280px|right|進入を中断してから墜落に至るまでのEA401便の飛行経路。[[国家運輸安全委員会|NTSB]]の事故調査報告書より転載。中央下にある白抜きの細長い線領域がマイアミ空港の滑走路。]]
23時35分09秒、EA401便は進入管制に無線をつなぎ、高度20002,000フィートに達したことと、前脚の表示灯を確認する必要があることを伝えた{{sfn|柳田|1975|p=115}}{{sfn|加藤|2001|p=101}}。これに対し進入管制は、左に90度旋回するよう返信した{{sfn|柳田|1975|p=115}}。空港付近の決められたコースを周回して再度進入コースへ戻るためであった{{sfn|柳田|1975|p=115}}。EA401便はこれを了承して左旋回を開始した{{sfn|柳田|1975|p=115}}。
 
23時36分04秒、操縦を担当していた副操縦士に[[オートパイロット]](自動操縦装置)を作動させるよう機長が指示した{{sfn|加藤|2001|p=101}}{{sfn|柳田|1975|pp=115–116}}。トライスターは当時最新鋭のオートパイロットを備えており、方位や高度、速度などをセットすると、それに沿って自動で飛行できた{{sfn|柳田|1975|pp=115–116}}。副操縦士はオートパイロットを作動させると、管制から指示された飛行方位をセットした{{sfn|加藤|2001|p=101}}{{sfn|柳田|1975|pp=115–116}}。
 
続いて副操縦士が前脚の表示灯を取り外して調べたところ、ランプが切れていた{{sfn|柳田|1975|p=116}}。問題はその後だった。副操縦士が表示灯を元に戻そうとして誤った向きに差し込んでしまった{{sfn|柳田|1975|p=116}}。表示灯は中途半端に嵌って動かなくなった{{sfn|柳田|1975|p=116}}。
 
23時37分08秒、機長は航空機関士に対して、操縦室の床下にある電子機器室(エレクトロニクス・ベイ)に入って前脚の状態を目視確認するよう指示した{{sfn|加藤|2001|p=102}}{{sfn|柳田|1975|p=116}}{{sfn|NTSB|1973|p=4}}。電子機器室には前脚の機構の一部が見える「のぞき窓」があり、脚が正しく降りたか確認できるようになっていた{{sfn|加藤|2001|p=102}}{{sfn|柳田|1975|p=116}}。
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: 副操縦士「我々は高度に何かしました」(We did something to the altitude.)
: 機長「何?」(What?)
: 副操縦士「我々はまだ20002,000フィートにいるはずですよね?」(We're still at two thousand, right?)
: 機長は叫んだ「おい、これは何が起きているんだ?」(Hey, what's happening here?)
: 23時42分10秒、[[着陸復行]]できる限界高度(30メートル)を切ったことを知らせる警報音がなる
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方位・高度・上昇率などの目標値を与えて自動で追従させたい場合は「コマンドモード」を用いる{{sfn|加藤|2001|pp=112–113}}{{sfn|柳田|1975|pp=115–116}}。コマンドモードの目標値は、コックピットのボタンやダイヤルで入力する{{sfn|加藤|2001|pp=112–113}}{{sfn|柳田|1975|pp=115–116}}。
 
事故当時のオートパイロットがどういう設定だったかは一意に特定できなかったものの、FDRの記録や公聴会で得たパイロットたちの証言を元に事故調査委員会は次のように推定した{{sfn|加藤|2001|p=116}}{{sfn|NTSB|1973|pp=16–17}}。副操縦士は、コマンドモードでオートパイロットを作動させ、高度を維持するアルティチュード・ホールドと指定した方位へ飛ぶヘディング・セレクトを有効にした{{sfn|加藤|2001|p=116}}{{sfn|NTSB|1973|pp=16–17}}。これは、通常の手順通りの操作である{{sfn|加藤|2001|p=116}}{{sfn|NTSB|1973|pp=16–17}}。そして、維持する高度は20002,000フィートにセットされたと考えられる{{sfn|加藤|2001|p=116}}{{sfn|NTSB|1973|pp=16–17}}。残骸から発見された事故機のオートパイロットにも、高度20002,000フィートがセットされていた{{sfn|柳田|1975|p=123}}{{sfn|オーウェン|2003|p=171}}。
 
=== 意図せず降下が始まった ===
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NTSBは、事故時の生存率を上げるための勧告も発行した。本事故の前に起きた2件の事故の教訓も踏まえて、客室乗務員席に肩掛け式シートベルトを装備し、離着陸時における着用を確実にするよう求めた{{r|asn}}{{sfn|NTSB|1973|pp=43–46}}。また、緊急脱出に備えて客室の誘導灯や非常灯を改善すること、そして携帯型照明を客室に搭載することを求めた{{r|asn}}{{sfn|NTSB|1973|pp=43–46}}。
 
本事故は、操縦可能でありながら意図せず降下して墜落に至った[[CFIT]]事故である{{sfn|遠藤|2019|pp=164–168}}。本事故の前からジェット旅客機のCFIT事故が問題になっており、既に1970年代初頭の時点で[[対地接近警報装置]] (GPWS) を開発するようNTSBが勧告していた{{sfn|遠藤|2019|pp=163–164}}。その中で本事故が発生したことからNTSBは、GPWSを義務化する規則改正を加速するようFAAに求めた{{sfn|遠藤|2019|p=168}}{{sfn|NTSB|1973|p=24}}。そうして本事故からちょうど2年後の1974年12月に[[連邦規則集]]が改正され、航空会社のジェット機にGPWSの装備を義務付ける要件が盛り込まれた{{sfn|遠藤|2019|p=168}}<ref>{{Citation |title=Installation of Terrain Awareness and Warning System (TAWS) Approved for Part 23 Airplanes, Advisory Circular 23-18 |publisher=Federal Aviation Administration, U.S. Department of Transportation |date=20002,000-06-14 |accessdate=2021-02-07 |url=https://rgl.faa.gov/Regulatory_and_Guidance_Library/rgAdvisoryCircular.nsf/0/7ca84861d31651a5862569b2006dbcfe/$FILE/AC%2023-18.pdf}}</ref>。
 
事故機の異常な高度低下に気づきながら管制官の対応が消極的だったのは、レーダーの表示高度を十分に信頼できないという事情があった{{sfn|鈴木|2014|p=170}}{{sfn|遠藤|2019|p=168}}。NTSBは、当時のレーダーシステムには航空機が地表に異常接近した際の警報機能がないことを問題視し、著しく高度を逸脱した際に管制官が助言できるようにレーダー情報処理システムを見直すようFAAに勧告した{{sfn|遠藤|2019|p=168}}{{sfn|NTSB|1973|p=24}}。これを受けて、レーダー情報システムの追加ソフトウェアとして、航空機が地表に異常接近した際に管制官に警告する「[[最低安全高度警報]]」(MSAW) が開発され、1976年11月から運用が開始された{{sfn|遠藤|2019|p=168}}<ref>{{Citation |title=FAA Historical Chronology, 1926-1996 |publisher=Federal Aviation Administration |url=https://www.faa.gov/about/history/chronolog_history/ |accessdate=2021-03-13}}</ref>。