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Miyabi605 (会話 | 投稿記録)
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乱心の原因は、[[宇陀崩れ]]と呼ばれる[[お家騒動]]の影響であるとされている。宇陀松山藩の家臣団は、初代・信雄またはそれ以前から織田家に仕えてきた「古参衆」と、一時期[[加賀藩|加賀前田家]]に仕えていた経歴のある2代[[織田高長|高長]]が伴ってきた家来衆の「加賀衆」の2派に分かれていた。4代・信武の治世、加賀衆に含まれる[[中山正峯]]と古参衆が、藩の財政政策をめぐり対立を深めた。
 
元禄7年(1694年)9月下旬、信武は古参衆の[[田中安定]]を手討ちにした。さらに、病気を理由に登城を拒否した[[生駒則正]]に藩士を遣わし、一族全てを討ち果たした。宇松山藩のこの事件は世間に広く知れ渡り、幕府も知るところとなった。翌10月末、動揺した信武は自殺した。幕府は織田家に対し、8千石減封の上で丹波柏原への転封処分とした。丹波柏原は当初、城も陣屋もなく藩政の始動に苦労するような封地であった。なお、中山は柏原転封後も織田家に出仕している。
 
これほどの騒動の場合、他の大名家ならばもっと大幅な減封、さらには[[改易]]となってもおかしくないが、ここにも幕府・徳川家の「織田家」への配慮が窺える。