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[[1926年]]([[大正]]15年)、深川の[[小島長次郎]]が私財を投じて沼の周囲の土地を買い、周辺に桜や藤棚などを植え、野球場やプールなどを造った。沼には屋形船が浮かび、鯉の養漁場もあった。この遊観地は'''昭和園'''と名づけられ、大宮の[[大宮公園|氷川公園]]に劣らぬ賑わいであったと言う。この際、沼の中央の西側に弁天島という島が作られ、[[1927年]](昭和2年)に深川の[[洲崎神社 (江東区)|洲崎神社]]より弁財天を分祀した'''別所沼弁財天'''が建てられた。
 
[[1951年]](昭和26年)、旧[[浦和市]]が荒れていた昭和園を買い取り、'''別所沼公園'''と改称して都市公園としての整備を始めた。 浦和で初のボートが楽しめる公園と言うことで、その珍しさから乗船を待つ人たちが列をなすほどであり、その最盛期にはボートが40隻あったと言う。だが、公園の整備が市の財政を悪化させることとなってしまい、[[1956年]](昭和31年)3月1日に浦和市は公園を[[埼玉県]]へ寄付する形で移管した<ref name="kaibori"/>。1957年(昭和32年)5月10日、埼玉県は公園の南側に埼玉県立美術館(現在の[[埼玉県立近代美術館]]の事実上の前身)を建設し、埼玉県美術展覧会の会場として使用された。展覧会が[[埼玉会館]]に会場を移した(更に県立近代美術館に移転)後は美術館の役割を失い、[[さいたま市立浦和博物館|浦和市立郷土博物館]]の館舎や[[さいたま県土整備事務所|浦和土木事務所]]の庁舎などに使われた後事実上閉館となり、別所沼公園の管理事務所になった後の1980年代中頃に建替により解体された。

[[2001年]]([[平成]]13年)に合併によるさいたま市の設置を記念して、公園の管理権が埼玉県から浦和市に移管され、合併後はさいたま市に自動的に承継された。[[2003年]](平成15年)にさいたま市の政令指定都市移行を記念して、公園の所有権もさいたま市に移管(事実上の返還)された<ref name="kaibori" />。
 
詩人[[立原道造]]が設計したが実現には至らなかった「ヒアシンスハウス(風信子荘)」が、[[2003年]](平成15年)4月に着工し、[[2004年]](平成16年)11月に完成した。この家は4.5坪(15m{{sup|2}})の小さな建物で、浦和在住の詩人で先輩の[[神保光太郎]]を慕いこの地に計画したものだと言われる。