「さまよえるユダヤ人」の版間の差分

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アイツェンとドイツ語圏での伝説形成について加筆
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[[:en:Matthew Paris|マシュー・パリス]]はこのロジャー・オブ・ウェンドーバーによる一節を自身の歴史に入れており、また別のアルメニア人も1252年にセント・オールバンズ大聖堂を訪れ、同じ話を繰り返している<ref>Matthew Paris, ''Chron. Majora'', ed. [[:en:Henry Luard|H. R. Luard]], London, 1880, v. 340–341</ref>。パリスによるとさまよえるユダヤ人がイエスを侮辱したのは30歳の時であり、100歳になると30歳に戻るという<ref>[[さまよえるユダヤ人#ヨーロッパをさすらう異形の物語(上)|サビン・バリング=グールド(2007), p.21]]</ref>。[[トゥルネー]]の司教フィリップ・ムスクの年代記(第2章491、ブリュッセル1839年)に依ると、同じくアルメニアの大司教が1243年に[[トゥルネー]]でこの物語を語ったという<ref>[[さまよえるユダヤ人#ヨーロッパをさすらう異形の物語(上)|サビン・バリング=グールド(2007), p.22]]</ref>。後に、[[グイド・ボナッティ]]は13世紀に[[フォルリ]](イタリア)の人々がさまよえるユダヤ人と出会った、また[[ウィーン]]などの人々も彼と出会ったと書き残している<ref>[[さまよえるユダヤ人#The legend of the Wandering Jew|Anderson (1965), p.22–23.]]</ref>。
 
[[シュレースヴィヒ (都市)|シュレースヴィヒ]]の司教パウル・フォン・アイツェン ''(Paul von Eitzen)''は1547年に[[ハンブルク]]の教会でさまよえるユダヤ人と邂逅したと語っている。その男は背が高く、髪は肩まであった。厳冬だというのに、みすぼらしい服に、裸足で、年齢は50歳くらいに見えた。彼は敬虔な面持ちで司祭の話に聞き入っており、イエスの名前が出るたびに溜息をつき胸を叩いていたという。アイツェンの問いにエルサレムのアハスヴェルスといい靴屋だったと答え、イエスが磔刑となった状況を[[福音書記者|福音史家]]や歴史家が記録していないことまでつぶさに語った。彼は、自分が永遠に彷徨う身となったのは神の意志であり、主を信じない者たちにイエス・キリストの死を思い出させ悔い改めさせるためだと信じているという<ref>[[さまよえるユダヤ人#ヨーロッパをさすらう異形の物語(上)|サビン・バリング=グールド(2007), p.25-28]]</ref>。パウル・フォン・アイツェンは[[マルティン・ルター|ルター]]と[[フィリップ・メランヒトン|メランヒトン]]に学んだ[[ルター派]]の神学博士であり、1564年からはシュレースヴィヒ教区の総監督も務めた人物で、彼の教説は[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン]]内の諸教会に絶対的な影響力を持っていた。彼の報告は1564年に印刷され、ドイツ語圏での独自の伝説形成のもととなった<ref>{{Cite journal|和書|author=金山正道|month=3|year=2013|title=ヨーロッパ文学におけるシャイロック的ユダヤ人像形成の前史 ( I )|url=https://fukuoka-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1158&item_no=1&page_id=13&block_id=39|journal=福岡大学人文論叢|volume=44|issue=4|pages=703-764}}</ref>。
 
イエスを侮辱したユダヤ人であるにも関わらず、イエスを自分の目で見た生き証人であるさまよえるユダヤ人は各地で歓待された<ref name=":4">{{Cite journal|和書|author=中谷 拓士|date=2016/3/10|title=民衆版画の世界|url=http://hdl.handle.net/10236/14204|journal=商学論究|volume=63|issue=4|pages=1-22}}</ref>。
 
ユダヤ人に関する「[[:en:Red Jews|赤いユダヤ人]]」と呼ばれるもう一つの伝説も、中世の中央ヨーロッパで同じく普及していた<ref>{{Cite journal|last=Voß|first=Rebekka|date=April 2012|title=Entangled Stories: The Red Jews in Premodern Yiddish and German Apocalyptic Lore|url=http://nbn-resolving.de/urn/resolver.pl?urn:nbn:de:hebis:30:3-275215|journal=AJS Review|volume=36|issue=1|pages=1–41|language=en|DOI=10.1017/S0364009412000013|ISSN=1475-4541}}</ref>。
 
=== 近代以降 ===
さまよえるユダヤ人の目撃情報は、1542年の[[ハンブルグ|ハンブルク]]から1868年の[[:en:Hopewell Township, Mercer County, New Jersey|ニュージャージー州ハーツ・コーナー]]まで、ヨーロッパのあらゆる場所で見られていた<ref>"Editorial Summary", ''Deseret News'', 23 September 1868.</ref>。1875年、[[メアリー・トッド・リンカーン]]は[[シカゴ]]に向かう列車の中で「さまよえるユダヤ人」が彼女の手帳を持っていったが後で返ってくると、息子[[ロバート・トッド・リンカーン|ロバート]]に語っている<ref>{{Cite journal|author=Jason Emerson|month=June/July|year=2006|title=The Madness of Mary Lincoln|url=https://www.americanheritage.com/madness-mary-lincoln-0#|journal=American Heritage Magazine|volume=57|issue=3}}</ref>。[[ジョセフ・ジェイコブス]]は、『[[ブリタニカ百科事典]]』の第11版(1911年)で、「この物語がどこまで完全な作り話で、どこまで巧妙な詐欺師が神話の存在を利用したのか、これらのケースから判断するのは難しい」とコメントを書いている<ref name=":3" />。1881年にとある作家は、「さまよえるユダヤ人」の伝説が事実として受け入れられていた中世後期には、異邦人が[[ユダヤ人居住区]]に侵入する口実として時折使われていたと書いている<ref name="Conway1881">{{Cite book|last=Conway|first=Moncure Daniel|title=The Wandering Jew|url=https://archive.org/details/wanderingjew00conwgoog|accessdate=2 December 2010|year=1881|publisher=Chatto and Windus|page=[https://archive.org/details/wanderingjew00conwgoog/page/n37 28]|quote=The animus of the revival of the legend is shown by instances in which the Jews' quarters were invaded under rumours that they were concealing the Wanderer.}}</ref>。イエスを侮辱したユダヤ人であるにも関わらず、イエスを自分の目で見た生き証人であるさまよえるユダヤ人は各地で歓待された<ref name=":4">{{Cite journal|和書|author=中谷 拓士|date=2016/3/10|title=民衆版画の世界|url=http://hdl.handle.net/10236/14204|journal=商学論究|volume=63|issue=4|pages=1-22}}</ref>。
 
== 文学 ==
=== 17世紀と18世紀 ===
この伝説は、17世紀に四葉のパンフレット「アハシュエロスという名前のユダヤ人の簡単な説明と物語(''{{Lang|de|Kurtze Beschreibung und Erzählung von einem Juden mit Namen Ahasverus}}'')」の登場でより人気となった<ref>This professes to have been printed at [[ライデン|Leiden]] in 1602 by an otherwise unrecorded printer "Christoff Crutzer"; the real place and printer can not be ascertained.</ref>。「およそ50年前に、司教がハンブルクの教会で彼と会ったといわれている。彼は悔い改め、みすぼらしい姿で、数週間後には先へ進まなければならないことに気を取られていた。」<ref name=":2" />これは上述の[[シュレースヴィヒ (都市)|シュレースヴィヒ]]の司教パウル・フォン・アイツェンの証言である。この伝説はまたたくまにドイツ全土に広まり、1602年には8つ以上の異なる版が登場し、18世紀の終わりまでに全部で40のドイツ語版が存在した。8つの版はオランダ語と[[フラマン語]]のものが知られており、そして物語はすぐにフランスに伝わり、最初のフランス語版が1609年に[[ボルドー]]で登場した。イングランドでは1625年にパロディとして登場している<ref>{{Cite journal|last=Jacobs and Wolf|title=Bibliotheca Anglo-Judaica|issue=221|page=44}}</ref>。[[デンマーク語|パンフレットはデンマーク語]]や[[スウェーデン語]]にも翻訳され、「'''永遠のユダヤ人'''」という表現は、[[チェコ語]]、[[スロバキア語]]、ドイツ語の''"{{Lang|de|der Ewige Jude}}"''として現在も使われている。どうやら1602年のパンフレットは、ユルゲンという巡回説教師の報告(特に[[:en:Balthasar Russow|バルタザール・ルッソウ]]による)から放浪者の記述より一部借りている<ref>{{Cite book|last=Beyer, Jürgen|url=https://www.etis.ee/ShowFile.aspx?FileVID=39465|chapter=Jürgen und der Ewige Jude. Ein lebender Heiliger wird unsterblich|title=Arv. Nordic Yearbook of Folklore 64|year=2008|pages=125–140|language=de}}</ref>。
 
フランスでは、[[:en:Simon Tyssot de Patot|シモン・ティソ・ド・パト]]の"''{{Lang|fr|La Vie, les Aventures et le Voyage de Groenland du Révérend Père Cordelier Pierre de Mésange}}'' ''(1720)"''にさまよえるユダヤ人が出てくる。