「ルイ18世 (フランス王)」の版間の差分

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[[ファイル:La famille royale by Gautier.jpg|200px|サムネイル|右|王室の顔ぶれ(左から二人目がルイ18世)]]
[[ワーテルローの戦い]]の後、2度目の復古王政の条件のひとつにブラカの追放が提示されている。7月8日、「連合国軍の荷車に乗って」ルイ18世はパリに2度目の帰還を果たすが、それでも戦争に倦み疲れ、立憲政治を希求する民衆から熱狂的な出迎えを受けた。当初国王は不信感を抱きつつもタレーランと[[ジョゼフ・フーシェ|フーシェ]]を閣僚入りさせていたが、1815年の選挙で超王党派(ユルトラ)が大勝し、彼が名付けるところの「[[またと見出しがたい議会|またと見出し難い議会]]」が成立すると、両者を合わせて政権から放り出した。同時期、国王はフーシェの下で警視総監を、そして[[アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ|リシュリュー]]内閣で王政復古後には警察長官を務めていた平民生まれの[[エリー・ドゥカズ|ドゥカズ]]伯爵(後に公爵)を見出すと、新たな寵臣として全幅の信頼を置いた。またドゥカズと共にルイ18世に重用されて信任を得た人物としては、[[アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ|リシュリュー]]公爵がいる。名門貴族として、ルイ16世の内廷侍従長を務め、亡命生活を送る間にロシアで多様な軍歴と行政職を経験したリシュリューは、革命の遺産を一切否定する亡命貴族の主流とは異なり、柔軟な立場を取っていた。リシュリュー及びドゥカズ伯爵ら穏健派をメンバーに持つ、確固たる内閣に国王は誠意を持って対応し、王族による攻撃からあらゆる努力を払って閣僚達を守った。1816年9月、ユルトラが多数を占める「またと見出し難い議会」との対立に危機を感じた国王は、議会の解散を行う。ユルトラらはかつての寵臣ブラカのパリ帰還を黙認することで国王に対する優位性を取り戻そうとしたが、失敗に終わった<ref name="pp48" />。
 
辛うじて再び復活した王政の存在を永久的に安定させるために、ルイ18世は革命派と反革命派の間隙を調和させることに力点を置いた。これにより憲章を固守し、[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で挙行された王室の伝統的な[[戴冠式]]さえも放棄しており、宮廷はヴェルサイユに帰還せず、ナポレオンが公邸として使った[[テュイルリー宮殿]]に入居し王宮とした。またフランス最初の近代的な内閣制の運営が始まった。毎週2回にわたり閣僚評議会がテュイルリー宮殿で開かれ、国王は首相や大臣を接見したり、彼らと一緒に執務しながら政府に対する影響力を維持しようとした。しかし既に高齢で健康もよくなかったルイ18世は、各官庁の通常の業務全般を統制する能力も、意志もなかった。国王はただし最も重要な決定と派閥間の調整に関してのみ実権を行使することができた。一方、百日天下期にナポレオンに取り入って付和雷同した人士らを反逆罪で処罰する趣旨の布告文が公布され、ネイ元帥などの高級将校が銃殺された。このような措置でも「[[白色テロ]]」を重ねるユルトラを満足させるには力不足だった。白色テロの用語はフランス王国の白旗から由来したもので、三色旗は復古王政下で止されたが、[[七月王政]]期に復活した。1815年10月、裁判の評決なしに1年間の投獄を合法化する法案が成立した。1817年まで革命派、ボナパルト派、またはその同調者として知られる6千人が同法案に基づいて強制拘禁された。全体公務員の四分の一が白色テロの影響を受けており、特に南フランスでは王党派の組織員がナポレオン追従者を[[リンチ]]するために家屋や商店を略奪したり、監獄施設り込むするなど、内戦に近い様相が展開された。ルイ18世は白色テロの過激化に感心しない視線を向けたが、占領軍との交渉が急を要する課題であるとの認識が優先された上、ユルトラの圧力もあって白色テロへの対処に事実上傍観する態度で一貫した。
 
[[ファイル:Le roi Louis XVIII dans son cabinet de travail des Tuileries (bgw17 0044).jpg|サムネイル|右|テュイルリー宮殿の書斎で執務中のルイ18世([[フランソワ・ジェラール]]画)]]