「ルイ18世 (フランス王)」の版間の差分

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同じ時期、隣国[[フェルナンド7世治世下のスペイン|スペイン]]では1820年より権力を掌握した自由主義派が国王[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]を圧迫して1812年の[[スペイン1812年憲法|カディス憲法]]を復活させていたが、政局の跛行が深まると、国王は絶対主義への回帰を試みるようになった。1822年10月に召集された[[:en:Congress of Verona|ヴェローナ会議]]では、イタリア、ギリシャ、スペイン問題が重点的に扱われ、この会議に参席した駐プロイセン大使の[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン|シャトーブリアン]]は、フェルナンド7世を復権させるためにスペインに干渉することをヴィレール首相に促した。同年12月、外相に就任したシャトーブリアンはフランスの軍事介入を保障する密約をフェルナンド7世と結び、[[ルイ・アントワーヌ (アングレーム公)|アングレーム公爵]]率いる9万人の兵力を[[ピレネー山脈]]の国境地帯に配置して侵攻に備えた。「[[:en:Hundred Thousand Sons of Saint Louis|聖ルイの10万の息子たち]]」と呼ばれたフランスの干渉軍は、1823年4月に国境を越えて侵攻を開始し、[[カタルーニャ]]で自由主義派が組織したスペインの防衛軍を撃破した勢いに乗って[[マドリード]]を占領した。フランスの支援に支えられたフェルナンド7世がカディス憲法を廃棄し、自由主義派政権のすべての政策を無効にする宣言を公布することで、スペインは絶対王政に復帰した。この時の干渉に動員されたフランス軍は、1828年までスペインに駐留した。
 
テュイルリー宮に定着した復古王政のブルボンの宮廷は革命前の儀礼が復活したが、ヴェルサイユ時代と比べると、落ち着いてながらも素朴だった。その背景には、革命の波風により多くの王族と宮廷貴族が亡くなったり、散らばってから久しく、ルイ18世の健康を考慮して王室の次元で自粛する気流が強かった点、そして残りの王族たちの性格も非社教的だった事情があった。さらに王室に割り当てられる維持費が制約され、任意的な浪費が難しくなったのも作用した。ルイ18世は若い頃から[[糖尿病]]を患い、中年以降は肥満、痛風、壊疽などの疾患が重なって苦しんだ。過度な食欲と次第に低下する体力のため、高度肥満がひどくなった彼は脇杖と車椅子に頼らなければ、自ら歩行することさえ困難になった。彼の体格はしばしば批評者の風刺の対象となった。それでもルイ18世は、臨終を迎えながらも起立姿勢を維持した[[ローマ帝国]]の皇帝[[ヴェスパシアヌス]]のエピソードを見習って、国王としての品位と平静を失わないように努力した。しかし崩御の4日前に痛みがひどくなり、主治医によって寝床に移されている。1824年9月16日午前4時、ルイ18世はテュイルリー宮にて王族や大臣たちが見守る中に崩御した。身体的には疲弊していたが、最後まで明敏な洞察力と懐疑主義的な思考力を保ち続けていたという。子供がいなかったため、弟のアルトワ伯が[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]として王位を引き継いだ<ref name="pp48" />。
 
== 人物 ==
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* ナポレオンがエルバ島に追放された後、大革命以来20余年ぶりにフランスへ帰国する際は、「殿下の助言とこの栄光の国、臣民の固い信念のおかげで、神の意志を受け、先祖からの王権を守ることができました」と亡命中に自らを保護してくれたイギリスの[[ジョージ4世 (イギリス王)|摂政公]]に感謝の言葉を伝えている。反面にルイ18世の気取った態度が気に入らなかったロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]は、「誰が見たら私を王位に座らせたと思うんだな」と愚痴った。
* [[ルイ14世]]ほどではないが、旺盛な大食家であった。本来、ふっくらとした体質に脂っこい食べ物を楽しみ、夕食にワインも4本ずつ空ける食習慣を繰り返したせいで老年になるほど肥満症状がひどくなった。ルイ18世の家族と食事をする機会があった[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]によると、[[イチゴ]]がいっぱい出てくるのを見たルイ18世は満足しながら、他人に勧めもせずにそのイチゴを持ってきてみな砂糖とクリームにつけて食べたという。
* 青年期には野望と知性を備え、兄ルイ16世の地位を公然と狙ったが、革命を避けて長年にわたり流浪しながら、妥協的で忍耐する性格に変わった。このような性向は即位後の国政にも反映され、彼の治世を特徴付けた融和政策の追求として現れた。既に妻と死別し、子供もいなかったので、晩餐の席上で美術や文学について招待した知人らと討論したり、冗談を楽しむことで孤独感を慰めた。
* 晩年のルイ18世は毎週水曜日ごとに[[:en:Zoé Talon du Cayla|ケイラ伯爵夫人]](本名はゾエ・タロン)の訪問を受け、彼女と一緒にいる間は誰の妨害も許さなかった。事実上の[[公妾]]となったゾエは老王の心配を取り除き、宮廷の厳格な礼法が支配する日常では感じられなかった安らかな雰囲気を作り、寵愛を受けたという。ルイ18世がゾエの胸に顔を当てて鼻をすすったという噂が出回り、彼女には「嗅ぎタバコ入れ」という別称が付けられた。
* 総裁政府及びナポレオン政権にて外相を務めたタレーランは、最終的にリシュリューを重用したルイ18世により政権から放逐される。彼が残した記録には、「ルイ18世はおよそこの世で知る限り、きわめつきの嘘つきである。1814年以来、私が国王と初対面の折りに感じた失望は、とても口では言い表せない。……私がルイ18世に見たものは、いつもエゴイズム、鈍感、享楽家、恩知らず、といったところだ。……」と国王を酷評している。ルイ18世の崩御に際してタレーランは臨終を側から見守ったのに、ルイ18世の遺体は壊疽による膿でまみれ、悪臭が立ちこめた。この時の経験をめぐり、タレーランは「最も疎ましい任務」を遂行したと皮肉を言った。