「ルイ18世 (フランス王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
58行目:
 
[[ファイル:Le roi Louis XVIII dans son cabinet de travail des Tuileries (bgw17 0044).jpg|サムネイル|右|テュイルリー宮殿の書斎で執務中のルイ18世([[フランソワ・ジェラール]]画)]]
ルイ18世の政策は白色テロこそあったものの、総じて慎重さと常識に基づいていたと評される。その統治の間、フランスにて革命後初めてとなる議会制政治の成立を見た。国王に執行権と法案提出権が付与される一方、議会は法案の議決と予算を承認する機能を有した<ref name="britannica" />。1814年憲章は[[ポルトガル王国|ポルトガル]]から[[オスマン帝国]]に至る各国の憲法制定のモデルとして、ナポレオンの[[共和暦12年憲法]]及び[[帝国憲法付加法|付加法]]よりも大きな影響を与えたとも評される<ref>Mansel, Philip.(2015), pp.5</ref>。1818年3月には年間4万人の徴兵に基づいて6年の服務を規定した「サン=シール法」成立され、ナポレオン戦争の終戦により瓦解されたフランス軍の再建に着手した。これは復古王政期の再軍備計画において基盤となった。ルイ18世の政治的姿勢は、主体的というより受動的であり、一貫して当時の内閣に可能な限り協力的であった。ドゥカズが政権を握っている間、国王の政策は大部分において彼に倣っており、どちらかと言えば穏健派であったが、1820年に[[シャルル・フェルディナン・ダルトワ|ベリー公]]が暗殺されると、国王はドゥカズによる政権運営はもはや困難であると判断して、惜しみつつも彼の退陣を黙認し、新たに首相となったリシュリューへ支援の手を向けた。国王の体力の衰えと共に、ユルトラの策謀に対抗する彼の力も弱まっていった。検閲法の強化(1820年3月)、ベリー公の忘れ形見[[アンリ・ダルトワ|アンリ]]の生誕(1820年9月)に導かれた国王は完全にユルトラの意のままとなる。同年6月には最富裕層に二重投票権が付与され、代議士の定員を増やす選挙法が批准されながらユルトラの立場が強まった。1821年12月、ユルトラの座長である[[:en:Joseph de Villèle|ヴィレール]]伯爵による新内閣が成立し、アルトワ伯が政権と密接した関係を結ぶと、次第に政治は国王の手から離れていった<ref name="pp48" />。
 
外政においては、リシュリューの主導のもと所期の成果があった。百日天下の後、フランスの外交的地位は困難な状況に直面していた。ナポレオンがエルバ島を脱出する前に締結された[[パリ条約 (1814年)|第一次パリ条約]]は、フランスの国境線を1792年以前に戻し、賠償金を免除するという非常に寛大な内容だったが、百日天下を切っ掛けに連合国は、フランスに対し以前より過酷な処分を狙っていた。反面にフランスと直接国境を接していないロシアは相対的に余裕のある態度を持ち、この点に着眼したルイ18世はタレーランを更迭し、ロシア皇室にコネクションのあるリシュリューを首相兼外相に起用して連合国との交渉に臨むようにした。1815年11月20日に締結された[[パリ条約 (1815年)|第二次パリ条約]]により、フランスは国境線を1790年以前に戻し、7億フランの賠償金を支払うことに同意した。またナポレオン時代にヨーロッパ全域から略奪してきた美術品を返還し、最長5年にわたり連合軍の占領及び駐屯を容認するという条件も受け入れた。1818年9月、4大連合国はドイツの[[アーヘン]]で国際会議を招集し、ルイ18世の参加を招待した。高度肥満で馬車に乗ることさえ手に負えなかったルイ18世は参加を拒否し、代わりにリシュリューを派遣した。同年10月1日、連合国は満場一致で占領軍をフランスから撤収させることを決めて、フランスの負担賠償金も2億6500万フランに減額した。11月末までにすべての占領軍がフランスから撤収した。フランス王国にとって、これは主要強大国として国際舞台に復帰すると共に、ヨーロッパ協調体制への編入が実現したことを意味した。[[アーヘン会議 (1818年)|アーヘン会議]]でフランスは[[神聖同盟]](五国同盟)に加入し、各国の君主らは革命が発生する場合に備えて相互軍事介入を約束した。