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== 歴史 ==
この刑場は、[[1624年]]([[寛永]]元年)7月の[[キリシタン]]殉教の時には既に刑場として使用していたと思われる。藩庁では1年間入獄者がないときは、これを祝して評定方へ酒肴を賜ったという。重罪は既決獄舎<ref>現在の[[秋田市]][[山王]]2丁目の一角にあった。その様子は『[{{NDLDC|763199/459}} 秋田沿革史大成.下巻]』に記載されている</ref>(下牢)に収容された。罪人はここから刑場にむかうこととなる。軽罪囚人は既決獄舎前、羽州街道の近くで処罰された{{Sfn|秋田市|1999|p=697}}。
 
草生津刑場は、近代になると[[1879年]]([[明治]]12年)に秋田県牧畜試験場となり、[[1881年]](明治14年)に秋田県第四勧業場と改称、その後秋田県畜産会、秋田県産牛馬組合、秋田県畜産組合と変わった。更に[[大正天皇]]が皇太子時代に行啓したのを記念し、行啓記念畜産運動場となり、県民市民に親しまれた。[[1935年]]([[昭和]]10年)、[[日本石油]]八橋鉱場で[[八橋油田]]の発見と大噴油があり、日本を代表する大油田になった。[[1941年]](昭和16年)に[[帝国石油]]秋田鉱業所となり、[[1998年]](平成10年)にショッピングセンターが開設された{{Sfn|秋田市|1999|p=697-698}}。
 
== 草生津刑場の様子 ==
[[File:Omokagebasi(Akita).jpg|thumb|面影橋]]
既決獄舎にいた重罪人は、年毎に10月27日を期して草生津刑場で斬罪の上、3日間のさらし首にされ諸人に見せた。父殺しや火付け殺人、夫殺しなどの重罪があった場合は、その日を待たずに不定期に死刑が行われた[{{NDLDC|763199/459}} 秋田沿革史大成.下巻]』。『秋田沿革史大成』には、既決獄舎から行列を作り移動して、草生津刑場で斬罪されさらし首にされる様子が詳細に記されている。
 
刑死を受ける者は橋のたもとの弥六そばというかけそば屋で、この世の食べ納めをし、橋を渡った。刑囚は今生の見納めに橋上から自分の面影を映したことから、面影橋の名が伝えられたともいう<ref>『八橋 寺内 道しるべ』、いいづかきいち、秋田県青年会館、[[1973年]]、p.32</ref>。
 
羽州街道は面影橋を通過し、右に大きくカーブして北に向かう。ここから、下八橋である。街道の左には石塔が建ち、松並木の参道の奥に二王門があり、丘の上に七面堂と宝塔寺があり、やや北に離れて石造五重塔があった。さらにその北に善龍寺がある。街道に戻ると街道は左にカーブして北に向かう。このカーブの右側の街道筋に石仏、六地蔵、一基の塚があった。ここに八橋(草生津)刑場があった。街道は刑場を過ぎ、吹上坂にかかる。現在この東側の街道沿いに松並木の名残である黒松数本が残る{{Sfn|秋田市|1999|p=704}}。
 
== 脚注 ==