「スターリングラード攻防戦」の版間の差分

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特にスターリングラード・トラクター工場は、中戦車[[T-34]]の主要生産拠点であった。ドイツ軍装甲部隊に対抗可能な2種の新型戦車のうち、中戦車T-34は[[V・O・マールィシェウ記念工場|ハリコフ機関車工場]]、重戦車[[KV-1]]は[[レニングラード]]のキーロフスキー工場が開発工場であり、主工場でもあったが、これらの工場はドイツ軍の進撃により疎開を強いられていた。その後、新たな戦車生産拠点となるクラスノエ・ソルモヴォ工場([[ニジニ・ノヴゴロド|ゴーリキー]]市)やハリコフ機関車工場の疎開先でもあるウラル戦車工場([[ニジニ・タギル]]市)の操業が本格化する以前においては、スターリングラード・トラクター工場こそが、最も有力な主力戦車組立工場であった。
 
市内では、これら工場群の男女労働者や、未成年の[[コムソモール]](共産主義青年同盟)団員で編成された、ソ連共産党に忠実な市民勢力による義勇兵のほか、ティモシェンコ元帥とともにドン川方面から組織的に撤退して再編された将兵さらには前年以来ウクライナから逃れてきた難民も市内に収容されており、スターリングラードはロシア南部最後の拠点という性格を有していた。また、もしソ連赤軍が反撃に転じた場合は、[[ロストフ・ナ・ドヌ|ロストフ]]奪回の策源地にもなりえた<ref group="注釈">[[朝鮮戦争]]中に30代で韓国軍の参謀総長を務めた[[白善燁]]大将の『若き将軍の朝鮮戦争 ― 白善燁回顧録』(草思社、2000年)によると、1941年に[[満州国軍官学校]]で独ソ戦について講演した関東軍情報参謀の[[甲谷悦雄]]中佐は、「間もなくヴォルガ川畔のスターリングラードという街で一大決戦が行われるだろう。そして、この決戦の勝者が世界を制する」と予言した。当時生徒だった白将軍は戦後に甲谷と再会する機会もあったが、スターリングラードに関する予言の根拠について、惜しいことに聞く機会を逸したという。</ref>。
 
=== ドイツ軍の攻撃開始 ===