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'''流鏑馬'''(やぶさめ、{{Small|異表記}}: '''鏑流馬''')は、[[日本]]の古式[[弓馬術]](伝統的[[騎射]]術)である{{Sfn|kb小学国}}{{r|"産経_20170814"|"共同_20170814"}}{{Sfn|kb泉}}。[[武家社会]]で行われた騎射の一種で、[[馬術]]と[[弓術]]を組み合わせたもの{{Sfn|kb旺}}。
 
疾走する[[ウマ|馬]]に乗りながら[[鏑矢]](かぶらや)で[[弓矢#的|的]]({{Small|まと}})を射る、[[技術]]であり[[儀式]]であり[[競技]]{{Sfn|kb-MP}}{{Sfn|kb-Brit}}{{Sfn|kb小学国}}である。古代においては、的射(むまゆみいさせ)騎射(むまゆみ)矢馳せ馬(やはせむま)と呼ばれた。これら[[矢]]を放つことから「矢馳せ馬(やばせめ{{Sfn|kb-Nipp}}、やばせうま)」と呼ばれていたのが変化し、いつしか「やぶさめ」へと[[wikt:転訛|転訛]]し{{Sfn|kb-Nipp}}、その音変化に対して[[当て字]]された名称が「流鏑馬」および「鏑流馬」であったと考えられている。
 
現代では、[[武田流]]や[[小笠原流]]などの[[流派]]が[[伝承]]する流鏑馬と、[[神社]]の[[神職]]や[[氏子]]、または[[保存会]]などに受け継がれた流鏑馬が、催事([[信仰]]と関わりない[[イベント]])と[[神事]]のいずれかの形で実施されている。
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[[ファイル:Yabusame00.jpg|サムネイル|250px|<small>流鏑馬の射手の[[狩装束]]<br/>(『流鏑馬絵巻』[[穴八幡宮]]蔵より)</small>]]
=== 歴史 ===
流鏑馬の起源は[[6世紀中頃]]([[552年]])に[[欽明天皇]]が国の内外の戦乱を治めるため、[[九州]][[豊前]]の[[宇佐]]の地において、[[神功皇后]]・[[応神天皇]]を祀り「天下平定・五穀豊穣」を祈願し、最も[[騎射]]に長じた者に馬上から三つの的を射させた神事が始まりとされている。<ref>{{Cite web|url=https://www.kyubajutukyookai.com/takedaryu-yabusame.html|title=武田流流鏑馬|accessdate=2021.10.26|publisher=一般社団法人 日本古式弓馬術協会}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://oumijingu.org/pages/134/|title=武田流鎌倉派流鏑馬神事の概説|accessdate=2021.10.26|publisher=近江神宮}}</ref>
 
[[日本書紀]]に[[天武天皇]]9年([[682年]])「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄杜長柄神社に看す。乃馬的射させたまふ」(天武天皇が長柄神社で流鏑馬を催し観覧した。)とある。<ref>{{Cite web|url=https://www.city.gose.nara.jp/kankou/0000001419.html|title=長柄神社|accessdate=2021.10.26|publisher=御所市地域活性推進室}}</ref>
 
[[続日本紀]][[文武天皇]]二年([[698年]]三月「山背国の賀茂祭の日にもろびとをあつめて騎射(むまゆみ)することをいさむ」([[京都府]]の[[葵祭]]で人々を集めて[[流鏑馬]]をすることを禁止する)とある。<ref>{{Cite web|url=http://www.shimogamo-jinja.or.jp/greeting/article.php?id=265|title=賀茂祭騎射神事|accessdate=2021.10.26|publisher=下鴨神社(賀茂御祖神社)}}</ref>
 
流鏑馬を含む弓馬礼法は、[[寛平]]8年([[896年]])に[[宇多天皇]]が[[源能有]]に命じて制定され{{Sfnp|金子四郎家教|1992|p=100}}、また、『[[中右記]]』の[[永長]]元年([[1096年]])の項などに記されているように、馬上における実戦的[[弓術]]の一つとして[[平安時代]]から存在した。