「スターリングラード攻防戦」の版間の差分

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== ソ連軍の大反攻 ==
[[画像:Map Battle of Stalingrad-en.svg|300px|thumb|'''ソ連軍の反撃'''{{small|(灰矢印)}}'''と前線の推移''' 11月19日、ウラヌス作戦開始時点の前線(赤)、12月12日、冬の嵐作戦開始時点の前線(オレンジ)、この時点でスターリングラードのドイツ軍は孤立している。12月24日、第6軍救出断念の時点の前線(緑)]]
9月12日~13日にスターリンとソ連軍最高指揮官代理[[ゲオルギー・ジューコフ|ゲオルギー・ジューコフ上級大将]]と参謀総長[[アレクサンドル・ヴァシレフスキー|アレクサンドル・ヴァシレフスキー大将]]はスターリングラードを防衛するための方策について協議した。この結果、スターリングラードから離れた地域を起点として反攻を開始し、スターリングラード第6軍を大規模に逆包囲するという方針が決定される。これは3人だけの極秘事項とされた<ref>スターリングラード「運命の攻囲戦 1942-1943」p.269</ref>。以上の方針に基づき[[ウラヌス作戦]](天王星作戦)の準備が開始され。作戦は2ヶ月かけて準備した後、100万人の将兵と戦車部隊の6割に当たる980両でスターリングラードの北西および南の側面に配置されていたルーマニア軍に向けて開始された。<!-- ソ連軍最高指揮官代理[[ゲオルギー・ジューコフ|ゲオルギー・ジューコフ上級大将]]と参謀総長[[アレクサンドル・ヴァシレフスキー|アレクサンドル・ヴァシレフスキー大将]]の下で、9月12日にスターリンの許可を得て極秘裏に2ヵ月にわたり準備された、100万人の将兵と戦車部隊の6割に当たる980両で両側面のルーマニア軍を粉砕し、スターリングラードの第6軍を逆包囲するという[[ウラヌス作戦]](天王星作戦)が発動される。-->各部隊は無線の発信を厳禁され、作戦目的も数日前まで極秘とされた。こうした情報封鎖の下で、数週間前から第62軍への弾薬補給も理由なしに削減されており、限界に近い戦闘に直面しているチュイコフが苛立つほどだった。加えて、悪天候が続いたために航空偵察が妨げられたのでソ連軍の大反攻はドイツ軍の裏をかいた。ドイツ軍は、ソ連軍予備兵力の量を甘く見ていたうえ、[[第二次ルジェフ会戦]]を予知し、9月以来中央軍集団に威力偵察を加えてきた予備兵力も、モスクワに近いルジェフに充てられると判断していた。予想通りルジェフでもソ連赤軍は11月25日よりジューコフの直率による攻勢を開始し、待ち構えた中央軍集団によって損害を受けたが、それは中央軍集団の兵力を移動させないための対策に過ぎなかった。
 
=== ウラヌス作戦 ===
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; [[11月21日]]
第6軍司令部はスターリングラードから60キロほど離れたドン川流域のゴルピンスキーに置かれていたが、冬営に備えて暖房や通信設備が整備されたニジネ・チルスカヤへの移転準備がちょうど進められていた。そうした折に、敵の戦車隊がゴルピンスキーにまで迫っているとの情報が入り、この日にパウルスは急遽ニジネ・チルスカヤまで移動した。しかし、ヒトラーに前線からの後退を逃亡だと責められ、やむなくスターリングラード郊外のグムラク飛行場付近へと再移動する。こうした司令部の頻繁な移動により、パウルス司令官の所在がたびたび不明になったことが第6軍の混乱に拍車をかける。さらに悪いことに、11月段階の第6軍は深刻な燃料不足に陥っており、後方に機動力のある予備部隊をほとんど配置していなかった。また、馬匹の多くも糧秣の関係で戦線から遠い後方地区に送られていた。このため、突破された作戦域でソ連の戦車隊や騎兵隊の快進撃を阻める部隊はなく、移動手段を失っていた多くの車両や重火器が有効な反撃に使用されることなく無傷のまま遺棄された。一方、ドイツ側では、第6軍を援護する兵力を確保するために、[[ヴィチェプスク|ヴィテプスク]]にあった[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン|エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥]]の[[第11軍 (ドイツ軍)|第11軍]]司令部を再編してドン軍集団が設置された。マンシュタインは即日、幕僚と共に特別列車で出発したする
 
; [[11月23日]] (包囲の完了)
午前6時、ロディン少将のソ連第26戦車軍団要衝であるドン川のカラチ大鉄橋を奇襲して奪回し、これにより両岸で戦車を動かすことが可能となった。さらに夕刻16時にはソヴィエツキーで南西方面軍に属する[[アンドレイ・クラフチェンコ|アンドレイ・クラフチェンコ少将]]の第4戦車軍団とスターリングラード方面軍に属する[[ワシーリー・ヴォリスキー|ワシーリー・ヴォリスキー少将]]の第4機械化軍団の戦車部隊が合流し、チル川方面との交通を遮断してドイツ第6軍に対する包囲環が完成する。包囲された枢軸軍の将兵は30万4000人に上った{{efn|23万余りという説もあるが、参謀本部のエーバハルト・フィンク大佐は30万4000人という数値をマンシュタインに示している<ref>アレクサンダー・シュタールベルク『回想の第三帝国』</ref>。}}。[[ミハイ・ラスカル|ミハイ・ラスカル中将]]のもとで戦線に踏みとどまったルーマニア第5軍団もついに降伏し、5個師団が壊滅した。ようやく事態の深刻さに気づいた第6軍パウルス司令官は、燃料が6日分しかないとして、スターリングラードから全軍をニジネ・チルスカヤ方面に撤退させるようヒトラーに許可を求め、徹夜して返電を待った。
 
; [[11月24日]] (ヒトラーの対応)
ドイツ・バイエルン州の[[ベルヒテスガーデン]]から東プロイセンのラステンブルクに専用列車で到着したヒトラーは、自署した命令書でパウルスの撤退要請を即座に却下し、戦線死守を厳命した。「第6軍を空から養う」とする[[ヘルマン・ゲーリング|ヘルマン・ゲーリング国家元帥]]や、それに追従する[[ハンス・イェションネク|ハンス・イェションネク空軍参謀総長]]の主張もあり、空中補給による戦線維持は可能と彼は判断していた。さらに、7月26日深夜の[[ハンブルク空襲]]以来、英米軍によるドイツ本土爆撃は激しさを増す一方、11月4日に[[ロンメル|ロンメル元帥]]の軍がエルアラメインから撤退を開始し、11月8日には連合国軍がモロッコアルジェリアに上陸した結果([[トーチ作戦]])、アフリカの戦線は崩壊しつつあった。こうした折、スターリングラードから撤退することはヒトラーにとって政治的にも重大な損失と思われた。一方、この日、ちょうど55歳の誕生日を迎えたマンシュタインは、ようやくB軍集団司令部のあるハリコフ東方のスタロビリエスクに到着したする。出迎えたヴァイクス司令官もたらした第6軍の状況は破滅的だった。ただし、マンシュタインも参謀の[[テオドーア・ブッセ|テオドーア・ブッセ大佐]]も、ソ連軍の消耗に期待し、まだ何とかなるだろうと楽観的に考えていた。
 
; [[11月26日]]
マンシュタインとドン軍集団の幕僚は、帝制ロシア時代に[[ドン・コサック]]の拠点が置かれた[[ノヴォチェルカッスク]]の旧離宮にある第4装甲軍司令部に到着した。空路は悪天候で使えず、道路は貧弱で、鉄道は[[赤軍パルチザン|パルチザン]]の破壊工作による脅威に直面しており、レニングラード全面から5日がかりの鉄道移動となった。しかし、その間に包囲環はますます強化されていた。一方、マンシュタインの手元には、クレツカヤ地区での包囲を免れたルーマニア兵などわずかな戦力しかなく、ルーマニア第3軍の[[ヴァルター・ヴェンク|ヴァルター・ヴェンク参謀長]]が後方要員や軍属までかき集めてチル川をようやく維持し、主力となる[[第6装甲師団 (ドイツ国防軍)|第6装甲師団]]はフランスからの到着を待たなければならないという状況だった。それでも第6軍の将兵は、「守り通せ! 総統が我々を救出する!」というスローガンを信じ、クリスマスまでには救出されるだろうと思っていた。ヒトラーはパウルスの忠誠心を確保するため、彼を[[上級大将]]に昇格させた。
[[画像:Soviet marines-in the battle of stalingrad volga banks.jpg|thumb|ヴォルガ川から上陸するソ連水兵]]