「スターリングラード攻防戦」の版間の差分

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'''スターリングラード攻防戦'''(スターリングラードこうぼうせん、{{Lang-en|Battle of Stalingrad}}, [[1942年]][[6月28日]] - [[1943年]][[2月2日]])は、[[第二次世界大戦]]の[[独ソ戦]]において、[[ソビエト連邦]]領内の[[ヴォルガ川]]西岸に広がる工業都市[[ヴォルゴグラード|スターリングラード(現ヴォルゴグラード)]]を巡り繰り広げられた、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]、[[ルーマニア王国|ルーマニア]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー]]、および[[クロアチア独立国|クロアチア]]からなる[[枢軸軍]]と[[赤軍|ソビエト赤軍]]の戦いである。
 
スターリングラードは元来[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の[[ブラウ作戦]]における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者[[ヨシフ・スターリン]]の名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大規模の[[市街戦]]に発展、やがては[[日露戦争]]の[[奉天会戦]]や[[第一次世界大戦]]の[[ヴェルダンの戦い]]を上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす[[野戦]]に拡大した。
 
緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻により、[[第6軍 (ドイツ軍)|ドイツ第6軍]]を主軸とする枢軸軍が包囲され、降伏した。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなった。米国の軍史家イヴァン・ミュージカントはこの戦を「[[ミッドウェイ海戦]]、[[エル・アラメインの戦い]]、[[第三次ソロモン海戦]]」と同じく第二次世界大戦の転換点であると位置づけている<ref>[[#ワシントン]]p.180</ref>。
 
死傷者数は[[ソンムの戦い]]などの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられた。街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万を数えた住民が終結時点でおよそ9800名にまで少し。第二次世界大戦最大の激戦、ま13世紀の「[[バグダードの戦い|バグダッド包囲殲滅戦]]」([[モンゴル帝国]])などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な軍事戦であったと目されている
 
== 戦いの背景 ==