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[[慶長]]10年([[1605年]])、'''大久保長安'''を普請奉行として[[武蔵御嶽神社]]の本社を普請。
 
[[慶長]]11年([[1606年]])2月には[[伊豆国|伊豆]]奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、[[一里塚]]の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち1[[里 (尺貫法)|里]]=36[[町 (単位)|町]]、1町=60[[間]]、1間=6[[尺]]という間尺を整えたのも長安である。
 
これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を[[石川康長]]や[[池田輝政]]の娘と結婚させ、忠輝と[[伊達政宗]]の長女・[[五郎八姫]]の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。