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メンバーはこれまでは音楽活動と並行して別にアルバイトや仕事をしていたが、たまの人気が沸騰したことから音楽活動に専念するため退職した<ref>{{Cite web |url=http://ukyup.sr44.info/fune4.html |title=第四章 イカ天で人生大逆転!? |accessdate=201-03-189 |publisher= |author=石川浩司 |work=「たま」という船に乗っていた |website=石川浩司のひとりでアッハッハー}}</ref>。1990年、シングル『[[さよなら人類/らんちう]]』でメジャーデビューを果たした。[[宝酒造|宝]][[焼酎]]「[[純 (焼酎)|純]]アレフ」の[[CMソング]]に採用され、オリコン初登場1位、売上約60万枚を記録し、[[NHK紅白歌合戦]]への出場も果たす<ref>{{Cite news |title=【TOWER VINYL太鼓盤!】第6回 〈レコードの日〉に買いたいのはこれ! スタッフの太鼓盤17枚を一挙紹介 |url=https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/23364?page=2 |newspaper=Mikiki |publisher=[[タワーレコード]] |date=2019-11-03 |accessdate=2020-03-14}}</ref><ref>{{Cite news |title=伝説のバンド・たま 解散後の今を取材したドキュメンタリー映画公開へ |url=https://www.oricon.co.jp/news/77779/full/ |newspaper=ORICON NEWS |publisher=[[オリコン]] |date=2010-07-02 |accessdate=2020-03-14}}</ref>。バンドは「'''たま現象'''」と呼ばれる[[社会現象]]的な人気を獲得し、「たま現象」の語は[[1990年]]の『[[現代用語の基礎知識]]』にも収録された。複数の楽器を演奏し、大衆音楽的要素と前衛音楽的要素を兼ね備えていたことから、バンドを[[ビートルズ]]に擬する言説も存在する<ref>『たまの本』[[竹中労]] 著</ref><ref>柳原陽一郎 ベスト・アルバム『[[もっけの幸い]]』 ライナーノーツ</ref><ref>{{Cite web |author= |date=2012-07-27 |url=http://tower.jp/article/feature_item/2012/07/27/0704 |title=たまがEMI時代に発表した2枚のアルバム『犬の約束』『ろけっと』がタワレコ限定再発 |publisher= TOWER RECORDS ONLINE |accessdate=2019-03-02}}</ref>。また、[[1992年]]に[[友部正人]]との共作『けらいのひとりもいない王様』をリリースした。
 
1992年、所属事務所の契約更新をきっかけに、自分たちの表現を貫徹したいという意図から個人事務所「'''たま企画室'''」を設立し<ref name=":4">{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20180923124148/http://ukyup.sr44.info/fune8.html |title=第八章 船からひとり降りた |accessdate=2019-03-18 |publisher= |website=石川浩司のひとりでアッハッハー |work=「たま」という船に乗っていた |author=石川浩司}}</ref>、レーベルも日本クラウンから東芝EMIに移籍した。この時期には[[バンドブーム]]も下火になり、「オゾンのダンス」以降は次第にヒットチャートやメディアに現れることもなくなっていったが、マイペースに活動を続けた。「曼荼羅」系列のライブハウスでの「たまの月例会」と称した月一回の定期ライブも行っていた<ref name=":5" />(2002年1月まで)。また、ライブハウスや[[会館]]等のコンサートホールだけでなく、普段はライブの行われる事のない[[寺院|寺]]や酒蔵、洞穴と言った場所でもライブを行う「どこでもツアー」と称したライブツアーも実施した<ref name=":4" />。[[1995年]]、自主レーベル「地球レコード」を設立し、6thアルバム『[[そのろく]]』をリリースした。石川によると、インディーズ・レーベルを立ち上げた背景には、レコード会社などが自主的に行っていた「[[放送禁止用語]]」の規制を回避する意図があったという<ref name=":4" />。同年、初の海外公演としてニューヨークでのライブが開催されることと、異なる方向性の音楽を始めたくなった柳原の脱退が発表された。この年の初頭には柳原から他の3人に脱退の意思が伝えられていたという。このことについて石川は「喧嘩をして仲がこじれての脱退なら関係の修復などもできたかもしれないが、純粋に他のことがやりたくなってしまったのなら仕方がない」と考えていたという。同年12月24日に開催されたライブ「たまのお歳暮'95195」を最後にソロ活動に専念するため柳原が脱退した<ref name=":4" />。
 
=== 3人編成のたまになってから解散まで(1996年 - 2003年) ===