「スターリングラード攻防戦」の版間の差分

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包囲されたドイツ軍の脱出をヒトラーが認めなかった背景の一つには、前述のように空軍総司令官の[[ヘルマン・ゲーリング|ヘルマン・ゲーリング国家元帥]]が空輸による食料、弾薬、燃料、および兵員の補給が十分に可能であると主張したことが挙げられる。これは、同年春における[[デミャンスク包囲戦]]の際、包囲された10万のドイツ軍が、輸送機による補給で72日間耐え抜いた末、軽微な損害で脱出に成功したという先例が、楽観論の根拠となっていた。しかし、戦地の状況はデミャンスク包囲戦より深刻だった。厳冬期という気象的条件、そして要求される物量もデミャンスクより過酷な条件であるにも関わらず、スターリングラードへの航空補給をゲーリング国家元帥が軽々に請け負ったことは、大きな代償を負うこととなる。包囲されてしまった味方部隊の総数すら把握できない状況とはいえ、デミャンスクと比較して大規模であることは確実だった。しかし、全体的に輸送機が不足していた上に悪天候と気温の低下が続き、航空機の離着陸を大きく妨げていた。さらに、デミャンスク包囲戦の場合と違って強力な予備兵力が後方に存在しない上、敵軍の兵力は大規模だった。開戦当初こそ数多くの撃墜数をドイツ空軍に献上したソ連空軍だったが、戦闘機操縦士は次第に空中戦の技量を上げてきており、スターリングラード周辺でも、Bf 109にも劣らない性能を持つ[[Yak-1 (航空機)|Yak-1]]を駆使する[[セルゲイ・ルジェーンコ|セルゲイ・ルジェーンコ空軍大将]]の第16航空軍による邀撃が激しくなってきた。その中には、ドイツ空軍将兵から「スターリングラードの白い薔薇」と注目された[[リディア・リトヴァク]]のような女性操縦士も含まれていた。ドイツ戦闘機の消耗とともに、低速力で軽武装の[[Ju 52 (航空機)|Ju 52輸送機]]は、ソ連軍戦闘機にとって格好の攻撃対象となっていく。さらに地上では、包囲環外周に1平方キロあたり100門の高射砲という対空陣地が待ち受け、多くの輸送機が撃墜された。
 
第6軍は1日700トン、最低でも300トンの補給を求めたが、平均到着量は110トン前後に過ぎず、純粋な部隊維持用の補給も一度としてなされることはなかった。これにより、機械化されていないドイツ軍が多数保持しなければならなかった馬匹は飼料欠乏により維持不能となり、同時に馬を食料にせざるを得ないという結果がもたらされた。併せて、撤退時にはすべての重砲や砲弾、車両を放棄することを意味していた。また、タツィンスカヤ、モロゾフスカヤといった[[飛行場]]も次々にソ連軍に占領され、輸送機の飛行距離は増大していった。ピトムニクとグムラクの着陸地が奪われた後は、第6軍の維持は[[パラシュート落下傘]]による補給品投下に頼らざるを得なかった。このような方法によって十分な量の補給は困難であり、さらに投下された補給品の多くは、ドイツ兵がたどりつく前にソ連兵に回収された。
 
ヒトラーから直接総統命令を受けたことで無謀な任務を負わされ、現地で空輸作戦を統括した[[エアハルト・ミルヒ|エアハルト・ミルヒ元帥]]は、ゲーリングの無知と怠慢に憤った。さらに、実現困難な命令に反発した空軍兵によるサボタージュすら発生した。最終的には、この空中補給作戦を遂行するために488機もの輸送機と1000人を越える[[操縦士 (航空)|操縦士]]が失われた。多くの輸送機を喪失したことは結果として更なる輸送力の低下につながることとなり、戦線を拡大しすぎた[[ドイツ国防軍]]にとって大きな痛手となった。特に、Ju 52は飛行学校の訓練機としても用いられていた上に飛行学校の教官がパイロットを担っていたため、これらを多数失ったことは、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]が弱体化する要因の一つとなる。そして、「第6軍を養う」という約束を実行できなかったゲーリング国家元帥の威信も、英米軍によるドイツ本土爆撃の本格化とあいまって損なわれ、[[ナチス党]]率いるドイツ政府No.2という地位を実質的に失うことになる。しかしながら、権限を持ったままのゲーリングの存在は空軍の統帥をますます混乱させることになるのである。