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[[Image:Permia map.jpg|thumb|275px|[[ゲラルドゥス・メルカトル]]によるペルミヤ含む北ロシアの地図 (Amsterdam, 1595)。]]
'''大ペルミ'''([[ロシア語|露]]:'''Пермь Великая''')は中世にあった[[コミ人]]の国で、現在の[[ロシア|ロシア連邦]][[ペルミ地方]]にあって、首都は[[チェルディニ (ペルミ地方)|チェルディニ]]であったといわれている<ref>[http://www.uraltourism.com/cherdyn.php Article on Cherdyn at uraltourism.com].</ref>。
 
{{訳語疑問点範囲|'''大ペルミ公国'''|date=2012年12月}}([[ロシア語|露]]:Великопермское княжество、[[コミ・ペルミャク語]]:Ыджыт Перем öксуму, Чердін öксуму) は14~15世紀に[[ノヴゴロド共和国]]から分離した[[コミ=ペルミャク人]]の封建政体として現れた。この公国は[[モスクワ公国]]の支配下で自治を認められたが最終的には[[1505年]]に併合された。
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この公国が位置していたのは[[カマ川]]上流地域で近隣の{{訳語疑問点範囲|[[ヴィチェグダ川]]のペルミ|date=2012年12月}}([[:ru:Пермь Вычегодская|Пермь Вычегодская]];小ペルミ)と密接に繋がりを保っていた。両ペルミ国家は9~10世紀よりノヴゴロド共和国に貢納していた。ヴィチェグダ川のペルミはモスクワの征服以前の14世紀[[ペルミのステファン]]により[[キリスト教]]化された。[[1451年]]にペルミ公家はモスクワ公国の属国として[[ヴイムスキー公]]と[[ヴェリコペルミスキー公]](大ペルミ公)の2つの称号とともに両地域の支配を手に入れた。
 
実際のところヴィチェグダ川のペルミの改宗の直後でも、大ペルミは[[モスクワ]]、[[ノヴゴロド]]、[[カザン・ハン国]]の間で独立を謳歌していた。最終的に[[1472年]]にヴィムスキー公たち含むモスクワの諸属国の軍が大ペルミを征服し、彼らの兄弟であるミハイル・ヴェリコペルムスキー公は捕らえられた。しかし間もなく開放され[[モスクワ]]から戻ってきて知事として彼の領地を終生治め続けた。結局、彼の息子マトヴェイが[[1505年]]にモスクワ公国によって免職させられた<ref>[http://heritage.perm.ru/news/archive/2003/3arch034.htm Article on Great Perm at heritage.perm.ru] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060929124438/http://heritage.perm.ru/news/archive/2003/3arch034.htm |date=2006年9月29日 }}.</ref>
 
18世紀初等まで、大ペルミという名は[[ストロガノフ家]]の支配域南部である上カマ地域の公的な地名として用いられた。