「大木こだま・ひびき」の版間の差分

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** [[韓国ドラマ]]の熱いファンである。時代劇にも造詣が深い。
** 特技は、暗算。
** こだま・ひかり時代、ピン(一人)での司会の余興をこなした時、トークで客席を笑わせる瞬間に自分から笑うクセが身に付いてしまい、その後しばらくは本業の漫才でもそのクセが抜けず、漫才が受けなくなったことがあった。それ以来、ピンでの司会は原則的に引き受けないことをモットーにするようになった。
** 漫才の中で「どつき」を入れることを嫌う。かつて舞台でひびきに叩かれた時、真顔で「そういう漫才がしたかったらコンビ別れさせてほしい」と告げたという<ref>読売テレビ『[[八方・陣内・方正の黄金列伝]]』(2018年10月15日放送分)より。なお、こだまが「どつき」を嫌う最大の理由は、セリフによって客を笑わせたのか、そうではなく「どつき」によって笑わせたのかが曖昧になってしまうことを潔しとしないからだという</ref>。また、「親子で一緒に仲良く笑ってほしい」という理由から、下ネタも封印している。
** 最近の若い芸人のマニアックなネタは分からないという先輩風を吹かすことは良しとしない性格。そうしたネタが客席に受けて自分が理解できないことを恥として、わかるまで繰り返して見ることをポリシーとしている。
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** 少年時代のあこがれの人は[[長島茂雄]]。
** 元は[[歌手]]志望で「[[全日本歌謡選手権]]」の滋賀予選に応募し落選した事がある。
** [[1975年]]に歌手志望で[[劇団東俳|東俳タレント養成所]]に入るも断念し、気晴らしで[[京都花月劇場|京都花月]]の舞台を見に行く。そこで見た[[中田ダイマル・ラケット]]の漫才に衝撃を受け、同年11月にダイマル・ラケットの弟子の[[中田アップ]]門下で、[[松竹芸能]]から中田ネオン・サインの中田ネオンとしてデビューし(つまりダイマル・ラケットの孫弟子にあたる)、こだまと同じく、トップホットシアターに出演していた。[[1977年]]の解散後、同年12月に秦欣嗣(古都ころん)と共に古都からん・ころんの古都からんとして活動。[[角座]]や[[新花月]]といった[[松竹芸能]]系の舞台で漫才をしていた。[[1980年]]に第10回[[NHK上方漫才コンテスト]]最優秀話術賞を受賞した。からん・ころん解散後、大木こだま・ひかりを解散して映画出演(『[[吼えろ鉄拳]]』)等でピン(一人)の仕事をしながら相方を募集していた大木こだまとオーディションによりコンビを組み、現在に至る。
** ひびき(当時からん)は、『お笑いスター誕生!!』で快進撃を続けるこだま・ひかりをテレビで観ながら、もともとは「引く」漫才を基調にしていた彼らが、「前に出る」漫才(特にこだま)をも合わせてこなすようにブラッシュアップしていることに、同じ漫才師でありながらしびれたという。
** 売れない時代、里見まさとの経営していた大阪・[[南方駅 (大阪府)|南方]]のスナックでバイトをしていたことがある。