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{{Otheruses||[[川栄李奈]]・[[松井玲奈]]・[[峯岸みなみ]]・[[渡辺美優紀]] ([[AKB48]]) の楽曲|ここがロドスだ、ここで跳べ!}}
[[File:Panama Canal Map EN.png|300px|right|thumb|閘門及び海峡の配列を示すパナマ運河の全体図。南の太平洋岸から[[パナマ市]]を右手に見て25kmほど北西に運河を進むと[[ガトゥン湖]]に入り、北の[[カリブ海]]側に到達する。]]
何度か運河計画が立てられたが、実際に着工したのは[[スエズ運河]]の建設者[[フェルディナン・ド・レセップス]]が初めてである。レセップスはスエズ運河完成後、パナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、パナマ運河会社を設立して資金を募り、当時この地を支配していた[[コロンビア共和国]]から運河建設権を購入。[[フランス]]の主導で[[1880年]][[1月1日]]に建設を開始したが、[[黄熱病]]の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航した。[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|1884年の恐慌]]の一因となりながらも、1888年には[[宝くじ]]付き[[債券]]を発行し資金を賄ったが、[[1889年]]にスエズ運河会社は倒産し、事実上計画を放棄した。1890年には運河の免許が更新されたが、[[1892年]]には上記の宝くじつき債券の発行を巡ってフランス政界で大規模な[[疑獄]]事件が発生。[[パナマ運河疑獄]]と呼ばれるこの事件は当時のフランス政界を大きく揺るがすものとなった。
'''パナマ運河'''(パナマうんが、{{lang-es|Canal de Panamá}} 、{{lang-en|Panama Canal}})は、[[中米]]にある[[パナマ|パナマ共和国]]の[[パナマ地峡]]を開削して[[太平洋]]と[[大西洋]]<ref name="日経産業20200421">パナマ運河、渇水で値上げ/乾期長引き水位低下/慣例破り 準備期間なく「用途不明」と海運反発『[[日経産業新聞]]』2020年4月21日(3面総合)</ref>(直接にはその[[縁海]]である[[カリブ海]])を結んでいる[[閘門|閘門式運河]]である。
 
[[File:Panama.A2003087.1850.250m.jpg|thumb|right|300px|パナマ運河の位置を示す衛星画像。密林は緑色で可視化されている。]]
パナマ運河の規模は全長約80[[キロメートル]]、最小幅91[[メートル]]、最大幅200メートル、深さは一番浅い場所で12.5メートルである。[[マゼラン海峡]]や[[ドレーク海峡]]を回り込まずに[[アメリカ大陸]]東海岸と西海岸を海運で行き来できる。[[スエズ運河]]を拓いた[[フェルディナン・ド・レセップス]]の手で開発に着手したものの、難工事と[[マラリア]]の蔓延により放棄。その後、[[パナマ運河地帯]]として[[アメリカ合衆国]]によって建設が進められ、10年の歳月をかけて[[1914年]]に開通した。長らくアメリカによる管理が続いてきたが、[[1999年]][[12月31日]]正午をもってパナマに完全返還された。
 
現在はパナマ運河庁(ACP)が管理し、通航料を徴収している<ref name="日経産業20200421"/>。[[国際運河]]であり、船籍・軍民を問わず通航が保証されている。
 
[[2002年]]の実績によれば、年間通航船舶数は13,185隻。通航総貨物量は1億8782万[[トン]](いずれもパナマ運河庁調べ)。
 
== 構造 ==
{{Panama Canal map}}
[[ファイル:Panama Canal Gatun Locks opening.jpg|thumb|パナマ運河のガトゥン閘門]]
パナマ運河の通路は以下のようになっており、上り下りにそれぞれ3段階、{{要検証|=待ち時間を含め約24時間をかけて通過|date=2021年11月}}させる。
 
カリブ海 ⇔ [[ガトゥン閘門]] ⇔ [[ガトゥン湖]] ⇔ [[ゲイラード・カット]] ⇔ [[ペドロ・ミゲル閘門]] ⇔ [[ミラ・フローレス湖]] ⇔ [[ミラ・フローレス閘門]] ⇔ [[太平洋]]
 
カリブ海からやってきた船は、コロンでパナマ運河へと進入する。[[コロン (パナマ)|コロン]]はカリブ海有数の港であり、コロン自由貿易地域や[[ラテンアメリカ]]最大の[[コンテナ港]]であるマンサニージョ港などが存在し、[[パナマ地峡鉄道]]の起点・コロン駅も存在する。コロンを過ぎると、すぐにガトゥン閘門にぶつかる。ここには閘室が3つあり、ガトゥン閘門の最後の閘室を抜けると、パナマ運河の最高地点である[[海抜]]26mの[[ガトゥン湖]]に到達する。ガトゥン湖はカリブ海側に流れるチャグレス川をせき止めてできた[[人造湖]]で、かつての山頂や[[尾根]]が[[半島]]や[[島]]として点在している。ガトゥン湖最大の島であるバロコロラド島を過ぎ、ガトゥン湖を抜けてしばらく行ったところにガンボアの街がある。ガンボアは北東から流れてくるチャグレス川が運河へと流れ込む地点であり、チャグレス川の上流にあるマッデンダムとアラフエラ湖(旧名マッデン湖)は、ガトゥン湖とパナマ運河への水の供給と水量安定機能を担っている。ガンボアを過ぎると、船はクレブラ・カット(ゲイラード・カット)と呼ばれる切り通しへと入る。ここは両洋の分水嶺にあたり、また地質がもろいために崖崩れが起きやすく、運河建設時は最も難工事となった区間である。現在では度重なる崖崩れに対処するために側面がコンクリートで固められ、また幅も大幅に拡張されてパナマックス船ですらすれ違いが可能となっている<ref>[[国本伊代]]・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』([[明石書店]]エリア・スタディーズ、2004年)
p.126 </ref>。クレブラ・カットの終端部付近には、[[パンアメリカン・ハイウェイ]]の通るセンテニアル橋が架かっている。クレブラ・カットを過ぎると、1閘室のみのペドロ・ミゲル閘門 があり、ここでやや高度を下げてミラフローレス湖へと入る。ミラフローレス湖の先には2閘室あるミラフローレス閘門が存在し、ここで船は完全に海面へと高度を下げる。ミラフローレス閘門を過ぎてすぐのところにバルボア市があるが、ここはパナマ運河の太平洋入口であり、パナマ地峡鉄道の終着駅やバルボア港がある。バルボアはパナマ市と隣接しており、ほぼパナマ市の経済圏に組み込まれている。パナマ運河出口付近には、初の運河横断橋である[[アメリカ橋]]が架かっている。
 
海抜26メートルのガトゥン湖(運河の最高点)が存在するなど運河中央部の海抜が高いため、[[閘門]](こうもん)を採用して船の水位を上下させて通過させている(“水の階段”と呼ばれる)。人造湖であるガトゥン湖と、ガトゥン閘門(3閘室)、ペデロ・ミゲル閘門(1閘室)、ミラフローレス閘門(2閘室)の3か所の2レーンの[[水門]]が存在する。最高地点の海抜が高く、多くの閘門を利用して徐々に上がっていくため、パナマ運河は「船が山を越える」と評されることもある<ref>国本伊代・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』(明石書店エリア・スタディーズ、2004年)p.136 </ref>。
 
パナマ運河を通過できる[[船舶]]の最大のサイズは'''[[パナマックス]]'''と呼ばれている。既存の閘門のサイズにより、通過する船舶のサイズは、全長:294.1メートル、全幅:32.3メートル、喫水:12メートル、最大高:57.91メートル以下に制限されていた。
 
[[2016年]][[6月26日]]に、大西洋側にアグア・クララ閘門、太平洋側にココリ閘門が開通し、より大型の船舶の通行が可能となった。新ルートを通行可能な船舶のサイズを'''新パナマックス'''と呼び、全長:366メートル、全幅:49メートル<ref>Qフレックスと呼ばれる大型LNG運搬船は幅50mなので通れないため、運河側では将来51.2mに許容限界を広げる方針である。</ref><ref>[http://newsphere.jp/world-report/20140625-7/ 「“あと1メートル…”日本のエネルギー戦略を左右する、パナマ運河拡張工事のゆくえ」]NewsShere(2014年6月25日)</ref>、喫水:15.2メートルである。最大高は57.91メートルのまま据え置かれた。
 
それでも載貨時の[[喫水]](吃水)が元々大きい[[タンカー]]や[[鉱石運搬船]]は通過不能で、[[コンテナ船]]の内、最も大型の一部もこの新閘門には対応はできないものがある。[[旅客船]]については、現在までに計画具体化あるいは建造中のものを含めて全て通航可能で、[[クルーズ客船]]の運用に大きな変化を及ぼすものと考えられている(パナマ運河自体が一つの観光資源である)。この新水路は昇降に用いた湖水を再利用できる設計となっている。
 
== 歴史 ==
=== 前史 ===
大西洋と太平洋とを結ぶ運河は、[[パナマ地峡]]の発見後すぐに構想された。[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|アメリカ大陸の植民地化]]を進めていた[[スペイン]]国王のカルロス1世([[神聖ローマ皇帝]]・[[ハプスブルク家]]の[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]と同一人物)が[[1534年]]、調査を指示した。しかし、当時の技術力では建設は不可能であり、実際に建設されるまでにはこれから400年近い歳月が必要となった。また、外国による掘削は現場に本国の政治力を及ぼす必要があった。1671年、[[ヘンリー・モーガン]]が後に運河の入り口となる[[パナマ市]]を制圧している。
 
[[19世紀]]に入ると、[[産業革命]]や[[蒸気船]]の開発などによって船舶交通が盛んとなり、また土木技術の進歩によって運河の建設は現実的な計画となった。1848年には[[カリフォルニア]]で[[ゴールドラッシュ]]が始まり、[[アメリカ合衆国]]東部から大勢の人々が[[アメリカ合衆国西海岸|西海岸]]をめざしたが、当時は[[大陸横断鉄道#アメリカ合衆国|大陸横断鉄道]]はまだなく、人々は両洋間の距離が最も狭まるパナマ地峡をめざして押し寄せた。これらの人々を運ぶため、[[1855年]]には[[パナマ鉄道]]が建設され、両洋間の最短ルートとなった。[[ホンジュラスの経済|ホンジュラス]]でも地峡鉄道を敷設する計画が立っていたが、米国の干渉により頓挫してしまった。
 
=== フランスの参入 ===
{{See also|ボナパルティズム|フランス第二帝政|メキシコ出兵}}
{{See also|太平洋戦争 (1879年-1884年)|グアノ}}
[[File:Panama canal médaille Roty.JPG|thumb|right|180px|着工記念メダル (1880年)<br/><small>[[オスカル・ロティ]]製作</small><ref>[https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Panama_canal_m%C3%A9daille_Roty_revers.JPG 裏面の画像]</ref>]]
何度か運河計画が立てられたが、実際に着工したのは[[スエズ運河]]の建設者[[フェルディナン・ド・レセップス]]が初めてである。レセップスはスエズ運河完成後、パナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、パナマ運河会社を設立して資金を募り、当時この地を支配していた[[コロンビア共和国]]から運河建設権を購入。[[フランス]]の主導で[[1880年]][[1月1日]]に建設を開始したが、[[黄熱病]]の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航した。[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|1884年の恐慌]]の一因となりながらも、1888年には[[宝くじ]]付き[[債券]]を発行し資金を賄ったが、[[1889年]]にスエズ運河会社は倒産し、事実上計画を放棄した。1890年には運河の免許が更新されたが、[[1892年]]には上記の宝くじつき債券の発行を巡ってフランス政界で大規模な[[疑獄]]事件が発生。[[パナマ運河疑獄]]と呼ばれるこの事件は当時のフランス政界を大きく揺るがすものとなった。
 
=== アメリカによる建設 ===
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パナマ運河の通航料は、船種や船舶の積載量、[[トン数]]や全長など船舶の大きさに基づきパナマ運河庁が定めている。1トンにつき1ドル39[[セント (通貨)|セント]]、平均で54,000ドル。
 
飲料水としても利用されているガトゥン湖の渇水を理由に、パナマ運河庁は2020年2月、湖の水位と船の大きさによる2種類の[[サーチャージ (運賃)|サーチャージ(追加料金)]]を導入した<ref name="日経産業20200421">パナマ運河、渇水で値上げ/乾期長引き水位低下/慣例破り 準備期間なく「用途不明」と海運反発『[[日経産業新聞]]』2020年4月21日(3面総合)</ref>
 
かつて、[[アメリカ合衆国連邦政府]]がパナマ運河を管轄していた時代には、運河通航料はスエズ運河と比べても非常に低く抑えられていた。これは、アメリカがこの運河を国際[[公共財]]として考えており、収益を目指さない考えを明確にしていたためである。