削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
3行目:
 
== 経緯 ==
[[延暦]]24年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]([[ユリウス暦]][[805年]][[12月31日]])、[[桓武天皇]]から[[中納言]][[近衛大将]][[藤原内麻呂]]に勅命が下り、殿中において[[参議]][[右衛士督]]・[[藤原緒嗣]]と参議[[左大弁]][[菅野真道]]に天下の徳政について相論させた{{refnest|group=原|name=『日本後紀』延暦二十四年十二月壬寅(七日)条|『日本後紀』延暦二十四年十二月壬寅(七日)条}}{{Sfn|高橋崇|1986|pages=161-163}}{{Sfn|樋口知志|2013|pages=286-288}}。
 
32歳の青年参議である緒嗣は、「方今天下の苦しむ所は、軍事と造作となり。此の両事を停むれば百姓安むぜむ」と、軍事([[蝦夷征討]])と造作([[平安京]]造都)こそが天下の民を疲弊させている原因であるとして、それらの停止を強く主張した{{refnest|group=原|name=『日本後紀』延暦二十四年十二月壬寅(七日)条}}{{Sfn|樋口知志|2013|pages=286-288}}。緒嗣は、桓武天皇の即位に尽力した[[藤原百川]]の長子であった{{Sfn|高橋崇|1986|pages=161-163}}。
9行目:
これに対し65歳の老参議である真道は、「真道意義を確執し、聴くことを肯むぜず」と、頑固に意義を唱えて聞き入れなかった{{refnest|group=原|name=『日本後紀』延暦二十四年十二月壬寅(七日)条}}{{Sfn|樋口知志|2013|pages=286-288}}。真道は、桓武天皇の信任が厚い[[渡来人|渡来系氏族]]出身の腹心の臣であった{{refnest|group=注|菅野真道は[[百済]]系渡来系氏族の出身で、桓武天皇の生母である[[高野新笠]]とは同族であった。}}{{Sfn|高橋崇|1986|pages=161-163}}。
 
緒嗣と真道2人の論は真っ向から対立したが、桓武天皇が支持したのは、両政策の停止を主張する緒嗣の意見であった{{refnest|group=原|name=『日本後紀』延暦二十四年十二月壬寅(七日)条}}{{Sfn|樋口知志|2013|pages=286-288}}。天皇は自らの判断で蝦夷征討と平安京造都の停止を決定した{{Sfn|樋口知志|2013|pages=286-288}}。
 
『[[日本後紀]]』の編者は、緒嗣の議を善としたこと桓武天皇を「有識之を聞きて、感歎せざる莫し」と論評している{{refnest|group=原|name=『日本後紀』延暦二十四年十二月壬寅(七日)条}}{{Sfn|高橋崇|1986|pages=161-163}}。
 
== 相論後 ==