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これから遡る1970年には、信隆が番組制作部門を[[日枝久]]などが旗揚げした労働組合潰しのためフジテレビから切り離していた。制作部門に組合員が多く彼らは地方や関連会社に左遷され、現場は活気が無くなり視聴率は落ち込み低迷した。このとき組合書記長だった日枝や[[横澤彪]]など、のちのフジテレビを支える実力者も例外なく[[左遷]]させられた。
 
そんな父の姿を見てきた春雄は、父の反対を押し切り著名な[[放送作家]]などをブレーンにして機構改革を断行し[[外部委託]]だった制作部門を左遷させた社員とともにフジテレビ編成局の下に戻し「編成主導」の番組制作を行った。当時編成と制作を融合させた機構改革は斬新的でその後、各局がその方法を取り入れるようになった。また組合員の復権も行い、実力があれば重用する人事も行った。その後の躍進に功績があった人物を後継者におき、日枝久も40代であったが役員に抜擢した。
 
こうした実力主義による改革は、フジサンケイグループ内では制作部門を中心に強力な支持を受け、フジサンケイグループは父・信隆による硬派路線を脱却して「軽チャー路線」とも呼ばれる黄金期を迎えることになる<ref name=shikanai />。フジテレビ社内では「ジュニア」と呼ばれた二世経営者であったものの、後のメディア経営の手本ともなる優れた手腕は別の評価を得るに至った。