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=== 出土地 ===
[[File:Kin-in Park (Shikanoshima).JPG|thumb|[[志賀島]]の金印公園<br/>漢委奴国王印出土推定地。]]
文献上は[[筑前国]][[那珂郡 (福岡県)|那珂郡]]志賀島村叶崎(かなのさき)または叶ノ浜とされている。[[志賀島]](現・[[福岡県]][[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]])の島内であるが、正確な場所は明らかとなっていない。

[[1914年]]([[大正]]3年)、[[九州大学|九州帝国大学]]の[[中山平次郎]]が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を[[筑前国]][[那珂郡 (福岡県)|那珂郡]]志賀島東南部(現[[福岡県]][[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]][[志賀島]])と推定した。その推定地点には[[1923年]](大正12年)[[3月]]、武谷水城撰による「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立された。その後、[[1958年]](昭和33年)と[[1959年]](昭和34年)の2回にわたり、[[森貞次郎]]、[[乙益重隆]]、[[渡辺正気]]らによって志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出された<ref>岡崎敬「「漢委奴国王」金印の測定」『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収</ref><ref>「北方」とあるが、叶ノ浜は志賀島の南西の海岸。</ref>。ただし、志賀島には金印以外の当時代を比定できる出土品が一切なく、[[志賀海神社]]に祀られる[[綿津見三神]]は漢ではなく[[新羅]]との交通要衝の神であり直接の繋路はまだ見出されていない。
 
[[1973年]](昭和48年)及び[[1974年]](昭和49年)にも[[福岡市教育委員会]]と九州大学による金印出土推定地の[[発掘調査]]が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されている。