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}}
'''ブダペスト'''/'''ブダペシュト'''({{lang-hu|Budapest}} {{IPA-hu|ˈbudɒpɛʃt|AUD|Hu-Budapest.ogg}}, [[英語]]: {{IPAc-en|ˈ|b|uː|d|ə|p|ɛ|s|t}}, {{IPAc-en|ˈ|b|uː|d|ə|p|ɛ|ʃ|t}} or {{IPAc-en|ˈ|b|ʊ|d|ə|p|ɛ|s|t}}; )は、[[ハンガリー]]の[[首都]]。ハンガリーで、同国最大の[[都市]]であり<ref name=TIME>{{cite news
|title = Beauty and the Feast
|publisher = ''[[Time (magazine)|Time]]''
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|first = Helena
|last = Bachmann
}}</ref>他県と同格の[[ハンガリーの地方行政区画|自治体]]である。
 
「ブダペスト」という一つの自治体となり[[ドナウ川]]の両岸を占めるようになったのは、[[1873年]][[11月17日]]に西岸の[[ブダ]]と[[オーブダ]]、東岸の[[ペシュト|ペスト]]が合併してからである<ref name=Encarta>{{cite encyclopedia
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|deadurldate = 2017年9月
}}</ref><ref>Molnar, A Concise History of Hungary, Chronology pp. 15.</ref>。
 
== 概要 ==
ブダペストは[[ドナウ川]]河畔に位置し、ハンガリーの政治、文化、商業、産業、交通の一大中心都市で<ref>{{cite encyclopedia
|year = 2008
|title = Budapest
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}}</ref>、[[東・中央ヨーロッパ]]{{enlink|East-Central Europe|a=on}}では最も大きな都市の1つ。しばしばハンガリーの[[プライメイトシティ]]とも表現される<ref>[http://books.google.hu/books?id=gssYJXHQO7gC&pg=PA41&lpg=PA41&dq=primate+city+budapest&source=bl&ots=3KfQHuOT7C&sig=s6GFxxV3WsiazWneD8ZOA8TY-3U&hl=hu&ei=1-2YS_f4FZqGnQODzPC_Cw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=9&ved=0CCkQ6AEwCA#v=onepage&q=&f=true Tuna Tasan-Kok: Budapest, Istanbul and Warsaw: Institutional and spatial change, p.41]</ref>。
 
ブダペストの市域面積は{{convert|525|km2|sqmi|1}}<ref name=Encarta/> であり、[[2011年]]の[[国勢調査]]によるブダペストの人口は174万人<ref>{{cite web
|title = 2011 Hungarian Census
|url = http://www.nepszamlalas2011.hu/files/sharedUploads/Anyagok/2012/03_ho/Nepsz_1elozetes_egybe_int.pdf
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|url = http://www.lboro.ac.uk/gawc/rb/rb5.html
|accessdate = 2008-05-22
}}</ref>。また、[[1848年]]から[[1918年]]の[[第一次世界大戦]]敗戦まで、ブダペストは[[列強]]に含まれた[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[ウィーン]]に続く第二の首都であった。[[1920年]]の[[トリアノン条約]]によりハンガリーは国土の72%を失い、ハンガリーの文化や経済をブダペストがすべてを占めるようになった。ブダペストはその大きさや人口で圧倒的に優位に立ち、ハンガリーの他の都市を小さく見せていた<ref>http://www.history.com/topics/hungary</ref>。ブダペストは[[1848年革命#オーストリア|ハンガリー革命 (1848年)]]や[[1919年]]の[[ハンガリー評議会共和国]]、[[1944年]]の[[パンツァーファウスト作戦]]、[[1945年]]の[[ブダペスト包囲戦]]、[[1956年]]の[[ハンガリー動乱]]など数々の歴史的な舞台の場でもあった。
 
ブダペストはヨーロッパでも最も美しい街の一つで<ref name=TIME/><ref name="ICOMOS"/><ref>{{cite news
|title = Budapest Is Stealing Some of Prague’s Spotlight
|publisher = ''[[The New York Times]]''
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== 呼称 ==
ブダペストの名称はドナウ川を挟んだブダとペシュト2つの町の名称を組み合わせたもので、1873年に町が合併され一つになって以来使われている。この際、古いブダを意味するオーブダも一緒に併合された。最初にブダペスト "{{lang|hu|Buda-Pest}}" の名が見出されたのは[[1831年]]に自由主義貴族[[セーチェーニ・イシュトヴァーン]]が出した "{{lang|hu|Világ}}" と言う本である<ref>[http://bparchiv.hu/magyar/kiadvany/bpn/02/bacskai.html Bácskai Vera: Széchenyi tervei Pest-Buda felemelésére és szépítésére] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090615094722/http://bparchiv.hu/magyar/kiadvany/bpn/02/bacskai.html |date=2009年6月15日 }}</ref>。ブダ "{{lang|hu|Buda}}" やペスト "{{lang|hu|Pest}}" の元の意味は不明瞭である。[[中世]]からの年代記によればブダは創建者の[[ブレダ (フン族)|ブレダ]]から来ているとされ、この人物は[[フン族]]の支配者[[アッティラ]]の兄である。ブダが人名から来ていることは現代の学者も支持している<ref>Kiss Lajos: Földrajzi nevek etimológiai szótára. Budapest: Akadémiai. 1978. 131–132.</ref>。他の説ではブダは[[スラヴ語派|スラヴ語]]で水を意味する "{{lang|bg|вода}}, {{lang|cs|''voda''}}"から来ている言うものもある。これは[[ラテン語]]のアクインクムでローマ時代のブダペスト名称で、ローマ人の主立った集落はこの地域にあった<ref>Györffy György, ''Pest-Buda kialakulása: Budapest története a honfoglalástól az Árpád-kor végi székvárossá alakulásig,'' Budapest, Akadémiai, 1997, 242.</ref>。また、ペストの名称についてもいくつかの説があり一つの説は<ref>Gudmund Schütte, ''Ptolemy's Maps of Northern Europe'' (The Royal Danish Geographical Society: Copenhagen, 1917). p. 101</ref> "{{lang|hu|Pest}}" は[[パンノニア]]属州から来ているとするもので、その時以来あったこの地域のコントラ・アキンクムの森は[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]によりペッシオン ("{{lang|el|Πέσσιον}}", iii.7.§2) と言及されていた<ref>William Smith (ed.), ''A Dictionary of Greek and Roman Geography'' (London : I.B. Tauris, 2006) [Facsim. of ed. published: London : John Murray, 1872.]</ref>。他の説ではペストの元はスラヴ語で洞窟を意味する "{{lang|bg|пещера}}, {{lang|bg-latn|''peshtera''}}" か炉を意味する "{{lang|bg|пещ}}, {{lang|bg-latn|''pesht''}}" で洞窟で火を燃やしていたか、地元の石がまを言及している<ref>{{cite book
|url = https://books.google.co.jp/books?id=M1JIPAN-eJ4C&redir_esc=y&hl=ja
|title = Placenames of the World
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|chapterurl =
|quote =
}}</ref>。[[829年]]の和平条約によりパンノニアは[[オムルタグ]]のブルガリアの軍が神聖ローマ帝国皇帝[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]に勝利したことから版図に加えられた。ブダペストでは2つのブルガリアの軍境が生じブダとペストの2つの河岸には要塞があった<ref>B. Dimitrov, Bulgarians- Civilizers of the slavs, p.48</ref>。[[アールパード]]に率いられた[[マジャル人|ハンガリーの人々]]は9世紀になって今日のブダペスト周辺に定住し<ref name=Travel/><ref>Molnar, A Concise History of Hungary, Chronology pp. 12</ref>、後に本格的に[[ハンガリー王国]]が創建された<ref name=Travel/>。研究ではおそらく[[アールパード朝]]の初期の居城がブダペストになった場所の近くにあり中央主権的な力であったとされる<ref>Molnar, A Concise History of Hungary, p. 14</ref>。
 
[[タタール]](モンゴル)による侵略が[[13世紀]]に起こり、平原での防御は難しいことが直ぐに判明した<ref name=Encarta/><ref name=Travel/>。[[ベーラ4世 (ハンガリー王)|ベーラ4世]]は街を囲む石の城壁を補強するよう命じ<ref name=Travel/>、自らの王宮もブダの丘の一番上に据えた。[[1361年]]にブダはハンガリー王国の首都になった<ref name=Encarta/> ブダの文化的な役割は[[マーチャーシュ1世 (ハンガリー王)|マーチャーシュ1世]]の時代、特に重要であった。ルネサンスは大きな影響を街に与えている<ref name=Encarta/>。マーチャーシュの図書館である[[コルヴィナ文庫]] {{lang|la|''Bibliotheca Corviniana''}}<ref name=Encarta/> はヨーロッパの歴史年代記、[[哲学]]、[[15世紀]]の科学など多数の蔵書があり、[[バチカン図書館]]に次ぐ規模があった<ref name=Encarta/>。後にハンガリーでは最初の大学がペーチに[[1367年]]に設立され<ref name=Sugar>{{cite book
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[[File:Budai palota 1930.jpg|thumb|left|1930年頃のブダ城]]
 
ブダペストは二重君主制の一方の首都となった。ブダペストの歴史の中で第一次世界大戦まで続く2番目に大きな街の開発に道を開いたのはこの歩み寄りによる。1873年、ブダとペストは公式に合併し古いブダであるオーブダも合併され新しい大都市ブダペストが誕生した。ペストは国の行政や政治、経済、交易、文化の中枢へと劇的に成長した。民族的にもマジャル人が[[ドイツ人]]を追い越したが、これは19世紀半ばに[[トランシルバニア]]や[[ハンガリー大平原]]からの大規模な流入人口による。[[1851年]]から[[1910年]]にかけマジャル人の割合は35.6%から85.9%に増加し、言語の面でもハンガリー語がドイツ語に代わり主要な言語になった。ユダヤ人人口のピークは[[1900年]]で23.6%を占め<ref>Budapest statisztikai évkönyve 1943 (Statistical Yearbook of Budapest, 1943), p. 33, Hungarian Central Statistical Office</ref><ref>''Budapest székes főváros Statisztikai és Közigazgatási Évkönyve 1921-1924'' (Statistical Yearbook of Budapest, 1921-1924), p. 38, Hungarian Central Statistical Office</ref><ref name="Budapest 1946 p. 12">Budapest statisztikai évkönyve 1944-1946 (Statistical Yearbook of Budapest, 1944-1946), p. 12, Hungarian Central Statistical Office</ref>、19世紀から[[20世紀]]の変わり目には[[ユダヤ人]]の大きなコミュニティが隆盛し、ブダペストはしばしば「ユダヤ人のメッカ」と呼ばれた<ref>Encyclopædia Britannica 1911, Budapest article</ref>。
 
=== 20世紀から現代まで ===
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}}</ref>。 [[スウェーデン]]の外交官[[ラウル・ワレンバーグ]]はブダペストの数万人のユダヤ人の生命をどうにかして救うためスウェーデンの[[パスポート]]を交付し領事の保護下に置く行動を起こした<ref>"[http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/biography/wallenberg.html Raoul Wallenberg]". ''[[Jewish Virtual Library]]''.</ref>。
[[File:Budapest jewish WWII memorial shoes on river bank.jpg|thumb|left|ドナウ川河岸の第二次世界大戦のユダヤ人記念物]]
東から[[ドイツ]]を撃退していた[[ソビエト連邦]]が1944年[[12月24日]]から翌年の[[2月3日]]にかけ、ブダペストを攻撃し、[[ブダペスト包囲戦]]が行われた。ブダペストはこの戦闘により大きな損害を被っている。全ての橋は[[ドイツ]]により破壊され、38,000人の市民がこの戦いにより命を落とした。また大勢の市民がソ連軍による略奪・虐殺・婦女暴行の対象となった。
 
[[1949年]]、ハンガリーは[[共産主義]]体制の人民共和国として独立を宣言した。新しい共産主義政府はブダ城のような建物を前支配者のシンボルと考え、[[1950年代]]に宮殿を破壊し全てのインテリアを壊している。1956年にブダペストでは平和的なデモによりハンガリー動乱が起こった。指導者層はデモを終息させようとしたが、大規模なデモは[[10月23日]]に始まった。しかしながらビエトの[[戦車]]がブダペストに侵攻しデモ参加者を潰しにかかっている。戦いは11月初めまで続き、3,000人以上が死亡している。[[1960年代]]から[[1980年代]]後半までのハンガリーは良く[[東側諸国]]から{{仮リンク|グヤーシュコミュニズム|en|Goulash Communism}}(幸せなバラック)と呼ばれ都市の戦時中の被害は最終的に全て修復された。[[エルジェーベト橋|エリザベート橋]]の再建は[[1964年]]に完成している。[[1970年代]]初期には[[ブダペスト地下鉄]]の東西方向を結ぶ[[ブダペスト地下鉄2号線|2号線]]の最初の区間が開業し、[[ブダペスト地下鉄3号線|3号線]]が1982年に開業した。[[1987年]]にブダ城とドナウ川沿いの建物を含めて[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された。[[2002年]]にはブダペスト地下鉄 ({{lang|en|Millennium Underground Railway}}) や英雄広場、都市公園 ({{lang|hu|Városliget}}) を含めた[[アンドラーシ通り]]が世界遺産の登録リストに追加された。1980年代にブダペストの市域人口は210万人に達している。だが現在では市域人口減少し、郊外部の[[ペシュト県]]への人口集中が進んでいる。
 
20世紀の最後の10年間の初めの[[1989年]]から[[1990年]]にかけては政治体制が大きく変わり、社会の体制も大きく変化し独裁者の記念物は公共の空間から倒された。新しい政治体制に変わってからの1990年から[[2010年]]までの20年間、ブダペストの市長として街の開発や市政を担ったのは{{仮リンク|デムスキ・ガーボル|en|Gábor Demszky}}である。
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|date = 1970-01-01
|accessdate = 2011-09-15
}}</ref>。[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]によれば、ブダペストはヨーロッパでは7番目に住むのにはのどかな場所とされ<ref>{{cite news
|url = http://www.forbes.com/2008/11/18/europe-homes-dollar-forbeslife-cx_po_1118realestate_slide_5.html
|work = Forbes
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}}</ref>。
 
ブダペストには 欧州連合の機関である[[欧州工科大学院]] (EIT) が本拠地を置いている。ブダペストは[[工業化]]により世界都市となった。1910年には人口の45.2%が工場労働者であった。1960年代にはハンガリーはヨーロッパでも最大規模の工業都市の一つで60万人の工場労働者がいた。[[1920年代]]から[[1970年代]]にかけてハンガリーの工業出荷額の半数以上をブダペストが占め、[[金属加工]]の''FÉG''や織物産業、自動車産業の''Ikarus Bus''などは構造変化前のブダペストの産業の主要な部門を占めた<ref>Gábor Preisich: Budapest városépítésének története, Műszaki Könyvkiadó, Budapest, 1998, ISBN 963-16-1467-0, p. 13, p. 77</ref>。現在、ブダペストではすべての産業の分野が見られる。ブダペストの現在の主要な部門は通信技術、コンピュータアプリケーション、電機、白熱灯などの照明器具である。製薬業もブダペストにおいては重要で'' Egis''、''Gedeon Richter Ltd.''、''Chinoin''などハンガリーの企業は知られている。[[テバファーマスーティカル・インダストリーズ]]もブダペストに部門を置いている。
 
工業は比較的郊外に立地しており、中心部はハンガリーテレコムや[[ゼネラル・エレクトリック]]、[[ボーダフォン]]、[[Telenor]]、[[オーストリア]]の[[エルステ銀行]]、ハンガリーのCIB銀行、 K&H、[[ウニクレディト]]、ブダペスト銀行、[[INGグループ]]、[[エイゴン]]、[[アリアンツ]]、[[ボルボ]]等々、国内外の様々な大手企業が立地している。ブダペストはサービス、金融、コンサルティング、金融取引、商業、不動産など第三次産業の中心地である。取引やロジスティクスは良く発達し、観光や飲食業界も進んでおり市内には数千のレストランやバー、カフェ、パーティー施設が立地する。
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[[国会議事堂 (ハンガリー)|国会議事堂]]は[[ゴシック・リヴァイヴァル建築|ネオ・ゴシック]]の建築様式で、[[聖イシュトヴァーンの王冠]]や剣、宝石、王笏など代々ハンガリー王が受け継いで来た戴冠用の品も展示されている。[[聖イシュトバーン大聖堂]]には[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]の右手が、聖遺物として残されている。[[ハンガリー料理]]やカフェ文化は {{lang|hu|''Gerbeaud Café''}}、{{lang|hu|''Százéves''}}、{{lang|hu|''Biarritz''}}、{{lang|hu|''Arany Szarvas''}}、世界的に有名な {{lang|hu|''Mátyás Pince''}}などが代表的である。[[アクインクム博物館]]にはローマ時代の遺構が残されており、歴史的な家具が ナジテーテーニ城博物館に残されている。ブダペストには200以上の博物館がある。
 
'''[[ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り]]'''は世界遺産に登録されている。王宮の丘には3つの教会と6つの博物館、興味を惹く様々な建物、通りや広場がある。王宮はハンガリーを象徴するもので、13世紀以来戦いの舞台であった。今日では2つの印象的な博物館や[[国立セーチェーニ図書館]]がある。シャンドール宮殿にはハンガリー大統領の執務室や官邸が含まれている。700年の歴史がある[[マーチャーシュ聖堂]]はブダペストでも貴重なものの一つで、その隣にある乗馬の彫像はハンガリーの初代国王で漁夫の砦からは市街地のパノラマを一望することが可能きる。トゥルルの像はハンガリーの神話の守護鳥で王宮地区と12区で見ることができる。
[[File:Crown, Sword and Globus Cruciger of Hungary2.jpg|thumb|聖イシュトヴァーンの王冠]]
[[File:Budapest castle night 5.jpg|thumb|ブダ王宮]]
ペスト側で最も重要な見所はアンドラーシ通りでコダーイ・コロンドとオクトゴンの間には多くのショップやフラットな建物が林立している。[[英雄広場]]と通りの間は庭園により分けられている。また、アンドラーシ通りの下には欧州大陸では初の地下鉄が通っておりほとんどの駅は開業当時の姿を保っている。ブダペストにはヨーロッパでは最大規模のシナゴーグがある<ref>{{cite news
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{{main|ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り}}
 
世界遺産登録対象に含まれる主要建造物群は以下の通りである。
{{div col}}
*王宮の丘
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=== 温泉 ===
ブダペストに温泉がある理由の一つには、古代ローマが最初にこの地域を植民化しドナウ川の直ぐ西側に地域の首府となるアクインクム(現代のブダペスト北部のオーブダ)を創建したことに遡る。ローマ人たちは熱水を利用し、享受しており当時巨大な浴場を建設していた。現代でもその遺構を見ることができる。新しい浴場は[[1541年]]-[[1686年]]のオスマン帝国支配期に入浴と医療的な目的で建設され、今日でも利用されている。ブダペストは「スパの街」と言う定評を受けており、[[1920年代]]に最初の温泉による訪問客による経済的な恩恵を達成した。[[1934年]]には正式にブダペストは「スパの街」の地位を占めるようになった。今日、温泉はほとんどが年配者に良く利用され「マジックバス」と "{{lang|hu|Cinetrip}}" を除いて若い人たちは夏に開かれる {{lang|hu|lidos}} を好む。[[キラーイ温泉]] ({{lang|hu|Király}}) は[[1565年]]に創建され、現代の建物はほとんどがトルコ支配期に遡り、ドーム状の屋根のプールも含まれる。[[ルダシュ温泉]]は中心部にあり、ゲッレールト丘とドナウ川の狭い場所に位置し、トルコ支配期に遡る建物が目立つ。主な特徴は八角形のプールで、光輝く直径10mのドーム状屋根を8本の柱が支えている。
 
ゲッレールト温泉とホテルゲッレールトは1918年に建てられかつてはトルコの温泉と中世期の病院がこの地にあった。[[1927年]]に浴場が拡張され、その中には波のプールが含まれ[[1934年]]には発泡風呂が加えられた。[[新古典主義]]の特徴が良く残され、色鮮やかなモザイクや[[大理石]]の柱、[[ステンドグラス]]の窓、彫像が含まれる。ルーカチュ温泉 ({{lang|hu|Lukács}}) もまたブダにあり、トルコの温泉を元とし唯一19世紀後半に復活した温泉である。スパと医療施設が設立されている。19世紀末の退廃的な雰囲気 ({{lang|fr|fin-de-siècle}}) が今でも残されている。1950年代以来、芸術家や知識人の中心と見なされている。
 
セーチェニ温泉はヨーロッパでも最大規模の複合温泉施設の一つで、ペスト側では唯一設けられた古い医療用の温泉である。内部の医療用温泉は[[1913年]]に遡り、屋外のプールは1927年に遡る。雄大な雰囲気があり、すべての場所は明るく巨大なプールはローマ風呂のようで小規模な浴場は[[ギリシャ]]の風呂文化を思い出させ、[[サウナ]]と飛び込み用のプールは伝統的なスカンジナビアの発散する方法を借りてきている。屋外の3つのプールは冬季を含め年間を通して開いている。屋内のプールは10以上に分かれており、医療用に利用できる。
 
== 統計 ==
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|year = 2010
|work = Index.hu
}}</ref>。ハンガリーの人口に占める外国人の割合は2009年には1.7%のみでそのうち43%はブダペストに居住し市域人口の4.4%を占めている。ハンガリーに住む3分の2近くの外国人は40歳以下で、ハンガリーに居住しているこの年代の主な目的は雇用である。
 
=== 宗教 ===
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== 交通 ==
ブダペストの市内公共交通機関は、[[BKV]](ブダペスト交通公社)によって一元的に運行されている。ロンドンに次ぎ世界で2番目に営業を開始した地下鉄である[[ブダペスト地下鉄]]や、[[ブダペスト市電]]、[[トロリーバス]]を運行している。4号線および6号線のトラムは、トラム路線として世界一の利用者数を誇り、54mの車両編成は世界最長でもある。48時間・72時間の2種類が存在するブダペストカードを購入した場合無料乗車可能である。
 
[[ハンガリー国鉄]] (MÁV) は、市内の主要3駅からハンガリー国内や欧州各地に列車を走らせている。
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[[パンノニア平原]]の伝統的な踊りはヨーロッパのダンス文化の中でも類のないもので、バルカン半島と西ヨーロッパ地域の間の独特な境目をなしている。いくつかの正統派のハンガリーの民族舞踊がブダペストで公演されている。ブダペストは世界でも数少ない高校で民族舞踊の授業が行われている都市である。市内には837の様々な歴史的な建造物があり、それらのほとんどはヨーロッパの芸術的な様式を象徴している。クラシカルで類のないハンガリアンアールヌーボーの建築物が占めている。
 
ブダペストには223の博物館や美術館があり、ハンガリーの歴史や芸術、科学だけでなく世界や欧州の文化や科学の記憶となっている。[[ハンガリー国立博物館]]、[[ハンガリー国立美術館]]、[[ブダペスト国立西洋美術館|ブダペスト西洋美術館]]、ブダペスト歴史博物館、[[メメント・パーク]]、[[ブダペスト応用美術館]]は代表的なものである。またブダペストには40以上の劇場や7つのコンサートホール、オペラハウスがある。野外の催し物も多くあり、夏には文化的な催しとしてコンサートや豊富な講演が良く歴史的な建物で行われる。大きな劇場として、[[ハンガリー国立歌劇場]]や{{仮リンク|ハンガリー国立劇場|en|National Theatre (Budapest)}}などがある。ブダペストの多くの図書館には他にない独特なコレクションを収蔵しており、[[国立セーチェーニ図書館]]は印刷された書籍が登場する以前の歴史的な遺構を保っている。{{仮リンク|メトロポリタンサボーアービン図書館|en|Metropolitan Szabó Ervin Library}}はブダペスト市民の一般教養に重要な役割を果たしている。他の図書館にはハンガリー科学アカデミー図書館、議会図書館、国立外国文学図書館などがある。
 
{{仮リンク|シゲトフェスティバル|en|Sziget Festival}}はハンガリーでは最大の野外祭典でロックコンサートやDJショーが行われヨーロッパ中でも同様に有名である。春や秋の祭典、ブダペストワイン祭なども良く知られた催しである。ブダペストを訪れた観光客は無料の地図や自分の興味がある情報をBTDMが運営するインフォポイントで得ることができる<ref>http://budapestinfo.hu/home_en.html</ref>。
 
=== ブダペストを舞台にした作品 ===
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== スポーツ ==
ヴァーロシュリゲットと[[マルギット島]]は都市の中で緑地が広がる申し分のない場所である。ヴァーロシュリゲットでは冬には大きな人造湖が凍結しスケートが楽しめ人造湖上のリンクとしては世界最大規模である。マルギット島は幅広いスポーツを楽しむことができ、サイクリングや水泳、テニスなどがある。アルフレッド・ハイオシュスイミングセンターでは2006年と2010年に[[ヨーロッパ水泳選手権]]が開催された。2011年には[[アイスホッケー世界選手権]]が2012年には欧州クロスカントリーチャンピオンシップも開催された。[[UEFA EURO 2020]]が開催された多目的スタジアム[[プスカシュ・アレーナ]]は、ブダペスト出身のサッカー選手でレアル・マドリードでもプレーした[[フェレンツ・プスカシュ|プシュカーシュ・フェレンツ]]の名に因んで命名された。ブダペストには[[バンディ]]もあり、る。2007年には女子のワールドチャンピオンシップも開催され<ref>[https://web.archive.org/web/20110721104433/http://bandy-2007-vb.devall.hu/en/?Gallery 2007 Woman Bandy World Championships](2011年7月21日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>、2004年にはバンディ世界チャンピオンシップBグループも行われている<ref>{{cite web |url=http://www.bandyvm.se/RTE/my_documents/my_pictures/VM_2004/budapest.jpg |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2016年11月25日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923182002/http://www.bandyvm.se/RTE/my_documents/my_pictures/VM_2004/budapest.jpg |archivedate=2015年9月23日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。ブダペスト郊外の[[ハンガロリンク]]では[[フォーミュラ1]]の[[ハンガリーグランプリ]]が1986年以来開催されている。
 
== ブダペスト出身の人物 ==