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;選手としての特徴
* バッティングに関してはとにかく凝り性で、毎試合のようにバッティングフォームを変え、「猫背打法」「マサカリ打法」など独特の打撃フォームを経て、バットを斜めに寝かせ小刻みに揺らす独特の踏み込むバッティングフォームを完成させた<ref name="星野仙一を怒らせた「やる気なし打法」">[https://www.news-postseven.com/archives/20160915_445488.html 元阪神・竹之内雅史 星野仙一を怒らせた「やる気なし打法」]</ref>。通称「竹之内打法」と呼ばれ、中西の指導によるものとされる。そのバッティングフォームは阪神移籍後、関西のお笑い芸人や[[阪神ファン]]の少年<ref>[[玉木正之]]『プロ野球大事典』新潮社,1990年</ref>によく物まねされた。最初は普通に構えていたが、ど真ん中のボールを打っても内野フライになってしまうため、上手くミートする方法がないかとバットを寝かせたところ、ボールに一直線でバットが出るようになった。それが変形してバットを担ぐようになったけど、また打てなくなると、猫背でベースに被ってみたりもした。竹之内がバットを担いで構えると、[[星野仙一]]が「やる気ないのか!」とマウンドから怒鳴ってきたこともあり、コーチからも「フォームはそんなに変えるものじゃない」「自分のフォームを作れ」と言われた<ref name="星野仙一を怒らせた「やる気なし打法」" />。
* 腕っぷしの強さで長打もあったが、好球必打で四球は少なく、何度も怪我に泣き年間フル出場は一度もなかった<ref name="週刊プロ野球データファイル" />。逆に死球は通算166と極めて多く、1970年[[5月24日]]の阪急戦([[北九州市民球場|小倉]])での1試合3死球はプロ野球記録である。体だけでなく気も強かった竹之内は、プロの先輩でもある[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]の[[野村克也]]に「おい特攻隊、当たらんようにせい」と囁かれ、「うるせえ、おっさん」と言い返したこともあった<ref name="黒い霧”の中で輝いた“トンタケ" />。ヤマを張って踏み込むタイプではなかったにもかかわらず、とにかくぶつけられ、1969年から1971年まで3年連続のリーグ最多死球を記録<ref name="黒い霧”の中で輝いた“トンタケ" />。特に1971年は54試合出場で14死球も受けてしまい、[[手首]]や[[肘]]の関節部への死球でなければ痛くなかったとはいうものの、さすがに故障にはつながった<ref name="黒い霧”の中で輝いた“トンタケ" />。さらに、南海戦ではキャッチャーボックスにいる野村から、絶えずボソボソとしつこくささやかれていた為、背後にいる野村の前で[[屁]]をかましたことがある
 
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